父の葛藤

私の父は三男であり、上の兄達とは不仲であった。

子供心に、酔っ払っては兄達をののしっていた姿を見てきたし、二人の叔父達ともほぼ疎遠であった。

詳しい背景はわからなかった。

一番上の叔父が入院した際に、私がお見舞いに行った事がある。娘家族も遠方でひとり心細いであろうと思ったからだ。私がお見舞いに行くと、叔父は驚くと同時にとても感動してくれていた。本来であれば、もっと交流があってもいいものであったろうに、何があったのか。よくぞ来てくれた、という感じであった。ずっと謎であった。

叔父二人も他界した今、父にいきさつを聞いてみたのだった。

玖珠町で牛馬専門の獣医をしていた祖父。高齢になり、そして、馬も林業で使われるくらいで顧客が減少の一途となり、経営状態も悪くなっていた状況があった。長男は祖父の仕事を手伝い、獣医として後継者になる予定であった。ところが、嫁姑問題があり、隣町にて開業するとして出て行ってしまったらしい。

次男は家業よりも独自の事業を始めたようだ。信仰の問題とかで勘当状態でもあったようである。

長女は教員になり結婚して福岡に行った。

残されたのが三男の親父である。経済状況から大学進学をあきらめ、家業を手伝いながら、出稼ぎに出たりと苦闘というべき20代を過ごしたのだ。
20代終盤でようやく公務員試験を受けてから人生は好転する。
とはいっても、年老いた祖母の世話をし続けた。

と同時に、母方の祖父母の世話もよく行った。母の兄弟もみな首都圏に行き、祖父母の世話をする母を父はバックアップした。
つまり、4人の親の世話を逃げずに行ったのである。

必然的に私がその一翼を担った。
父方の祖母の相手をよくしたものだし、病院までおぶっていった事もある。畑の手伝いもした。小学生が祖母をおんぶして病院に連れていく姿は、この令和の時代では見る事はできないだろう。
母方の祖父母の家にもよく遊びに行き、いろんな手伝いをした。
二人が病院に入院するときは運転手役も何回も行った。
祖父が一人になるケースの場合は泊まりにいかされるのである。囲碁の相手をしたり、池の掃除をしたり。

親父に兄弟皆が逃げているのに逃げようと思わなかったのかと聞いた。無言で首を横に振る父であった。

そして、驚愕の告白があった。スピリチュアルな人から、母方の祖母と親父は前世で親子だったという話を聞いたからであるという。事実かどうかはわからないが、母方の祖母を引き取り、しばらく一緒にくらしたのである。

私が独立してまもないころ、実家には両親と私と妹と祖母の五人で暮らした時期がある。狭い家である。皆でこたつに入り夕食を共にする。
祖母が施設に入ってから聞いたのだが、その時の数年間が一番楽しかったと泣きながら話す姿が目に焼き付いている。私にとってもかけがえのない思い出である。

父、兄弟を憎む。自分の人生を台無しにした父と兄達。しかし、母への愛があったという。前世での母に対しても。なんと素敵な親父だろうか、と思った。

そして、父の兄弟たちも、過酷な家庭環境のなかで、苦闘しながら人生を切り開いたのだと思う。そして、祖父も、時代にほんろうされ、関東大震災を生き延び、結局、不遇な晩年を過ごしたのである。

そんな父も今年で84歳になる。父にとって人生とは艱難辛苦の連続であったという認識である。そして、今もなお、我々子供たちの人生に心を配ってくれている。

家族のヒストリー。かけがえのないものである。

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