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信仰心

「大草原の小さな家」を見ていると、信仰心って、美しいなあと思う。信仰と生活が一致している感じが強い。

実のところ、カトリック系の保育園に通っていた経歴のある私。当時、その保育園の評判が良かったからだと思う。両親、祖父母もクリスチャンでもなんでもない家庭。曹洞宗のお寺に墓はある。日本人の宗教観の節操のなさを表している事例だろう。

曹洞宗といっても、たまたまお寺が曹洞宗だったくらいで、墓参りに行くとき、法事の時に、お経を聞くくらいのもの。仏壇に手を合わせるのはお盆くらい。そんなものであった。開祖である道元の本を読み、座禅をするというわけでもない。道元の「正方眼蔵」は買ったまま本棚の肥やしになっている。総本山の延暦寺で修行するわけでもない。たまたま故郷の菩提寺が曹洞宗だった。それだけの感覚である。

叔父が第二次世界大戦で徴兵された時、悲惨な地獄図を見たのだろう。終戦後クリスチャンになった。多くの寄付と奉仕を行ったようである。叔父の葬儀は小さな教会で行われた。そこに参列したとき、叔父のクリスチャンとしての人生を少しだけ垣間見た。

保育園時代、お遊戯会の演目はイエス誕生のシーンであった。私は羊飼いに飼われている羊役という端役を演じたらしい。園長先生はイタリア系の樽のような体系の先生だった。デプリンジオさん?という名前。デブだからねとネタにされていた記憶がある。英語の授業もあった。当時の先進的なお母さんの間で、英語が学べる保育園というのがブームだったんだろう。それっきりのキリスト教とのかかわりである。

さて、大人になり、映画などで聖書の世界を知る。自分なりに知識を得始める。キリスト教とは何か。一方、曹洞宗とはなにか、との思いもわいてくる。一方で、神道とはなにか。そんな段階にもなる。

キリスト教とは何かと調べていくと、実際のところ、福音書の最古のものには、キリストが磔刑で処刑されたあと墓に入れられる。その墓にマグダラのマリアらが見に行くと、遺体はなく天使が二人いたという。恐れるな、キリストは復活したと天使が伝えたという。マリア達はひどくおびえた。怖くなって誰にも伝えなかった。
ここで終わっているらしい。

そののち、弟子たちのもとにあらわれて食事したりしたという記述は付け足されたものらしい。付け足すにしても、信者の前だけに現れ、40日後に昇天したという。劇的な復活劇ではない。

新約聖書も、つきつめて問い直すと、写本の過程、ヘブライ語からの翻訳の過程、などで、改変があるという。むしろ、パウロの思想が加わったパウロ教という説もある。

イエスは本当に復活したのか?という問いに、復活してないとすると、12使徒達がその後、命をかけて伝道し、殉教していった説明がつかない。だから真実である。それが結論であるらしい。

イエスキリストの復活を信じるかどうか。ここがキリスト教の肝であるが、実際、モヤモヤした記録しかないのである。
映画でいえば、復活後、ローマ皇帝のネロのもとにあらわれて、繁栄しました、というストーリはなく、12使徒は殉教し続けるのだ。

ユダヤ人であるキリストから派生したキリスト教は、ユダヤ人を弾圧し、イスラム教との抗争を続け、奴隷、植民地、侵略、暴虐の世界史をつくりあげてきている。それは、今現在も続いているのだ。

キリスト教は個人宗教として、つらい人生を生きていくうえでのフォーマットとして優れているらしい。だからこそ、キリスト教の名のもとに虐殺された中南米、奴隷とされた黒人の間にも広まるのである。

私が死などの困難に直面したとき、何に祈るだろうか。神道の神だろうか。仏陀であろうか。キリストであろうか。どれもこれも中途半端でイメージすらわかない。日本人のクリスチャンの割合は1%程度だという。先進諸国でもっとも低い割合らしい。統計的には神道が最大となっているそうだが。

いろいろと情報を手繰っていくと、原始キリスト教が拡がり景教として中国に伝わり、日本に入ってきたという説に至る。そして、日本の神道と融合したとされているらしい。

アマテラスの岩戸隠しは、キリストの復活のシーンと共通する。古事記の世界観が西洋の神話と共通点がある。

そうであれば、やはり日本人として、神道でいいんだなと結論づけられる。
原始神道というか、古神道というか。

古神道、原始キリスト教、原始仏教。
いろんな宗教も時代をへて、変質していく。

最初のシンプルなものがすぐれているという事になるのだろう。
古神道の信仰と暮らしが一致するようなもの。そんなライフスタイルはどのようなものだろうか。

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