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何の価値も提供できないことへの恐れがあるのです。

自分自身を内省する中でいつも気づかされることは、私が集団の中で何らかの行動や流れの起点になることはまずない、ということだ。集団の中ではほぼ無意識のうちに、「相手にどのように合わせるか」を考えて自分の行動を決めているところがある。

これは本能レベルでそうだと思う。自分の行動が、常に他者の存在を前提にして規定されていく感覚がある。

しかしそれは、その集団の中で空いている役割を探すという発想にも表れているように、決して能動性や主体性が全くないわけではないのだと思う。ただ、自分発信で何か新しいことをすることを求められたときに、どことなく苦しさを感じるのだと思う。

集団の中で苦しさを感じることなく過ごすために重要な1つのファクターとして、「貢献感」が挙げられると思う。自分が集団に対して何らかの価値を提供できる、という自信や確信があれば、その集団の中で前向きに生きていくことができるだろう。

そうしたとき、私が生み出せる「価値(Value)」とは一体何なのか。どういう種類の、どのような価値なのか。

ここに対して、私は何も価値を提供できないのではないか、という謎の恐れがある。例えば、今の研究者コミュニティにおいても、当たり前だが単に「知っている」ということにはもうあまり価値は無い。それらの知っていることからどのような意味を見出すかが大事なのだ。そして、そこに自分個人としての人間性や価値観が反映されるはずだから何らかの価値が付与されるのだ。

先の恐れとは、もし何か自分の考えで価値を提供したつもりになっていたとしても、それが仮に否定された場合、自分自身の存在意義が消えてしまうことに対する恐れなのだろうと思う。価値を提供できなければ、そのコミュニティにいる価値はない、と考えてしまっている気がする。

ただ、その「価値」についてのハードルを上げすぎる必要は無いのかもしれない。マシュー・サイド著「多様性の科学」的な観点からすると、「複雑な事象を含む課題」の解決に際しては、自身の視点から見た問題分析について共有すること自体が価値になる、とのことだ。

これまで生きてきた自分自身という人間性をフルに活用し、何らかの視点を提供することさえできれば良いのではないか。

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