見出し画像

自分の涙が流れるトリガーがわからないのです。

人間が泣くときには、さまざまな感情がその原因となり得る。悲しい涙、嬉しい涙、感動したときの涙、感謝したときの涙など。これらを大ぐくりにして表現すれば、「心が動いたとき」に流れることが多いかもしれない。

私自身の経験を振り返ると、私は泣いた経験が少ない。確かにあるにはあるし、自分の中で印象に残っている泣いた経験もあるのだけど、その数はおそらく多くの人々よりも圧倒的に少ない自信がある(自信を持つことではないだろうが)。

つまり、自分の心が動くほどの経験をする数が少なかったのだろう。

そんな私にとっての数少ない涙を流した出来事のうち、未だにその原因がよくわからずに不思議に思っていることがある。

それは、地元の子育てコミュニティ集団で行く夏のキャンプの実行委員長を務めたある年のことだ。

このキャンプには南北の各地域それぞれに実行委員長が1名ずついて、そのうちの1人が私で、もう1人は同世代の女性だった。

その実行委員長2名とコミュニティの事務局1名で作られた本部3名で運営会議をしていたとき、とある事件が起きた。

会議中に話をしている流れで、もう1人の実行委員長が突然涙を流し、「今日は帰ります」と言って席を立ち、会議を抜け出そうとしたのだ。

彼女は、自分が所属する班の青年集団の結束がなかなか作り切れないことに悩みながら責任を感じると共に、周りの青年たちがその悩みや自分の思いを理解してくれないことに対しての憤りや悔しさを感じていたようだった。

そのとき私は、泣きながら帰ろうとした彼女を引き留めようとして、いろいろなことを喋った記憶がある。

何を話したかは具体的には覚えていないのだが、そのときに自分も泣きながら何かを話していたことだけは記憶に残っているのだ。

あのときなぜ私は涙を流していたのだろうか?

誰かが泣いているのを見てもらい泣きするタイプでは全くないし、泣きながら誰かに自分の思いを伝えるような感傷的な人間でもない。涙を流しながら人に何か言葉を吐いていたのは、後にも先にもあれが最後だ。

この記憶について、未だに自分の中でうまい意味づけができないでいる。

涙を流しているということは、おそらく普段は感情の起伏が少ない私の心が大きく揺れ動いていたということを意味していそうだが、何がトリガーとなってそうなったのかはよくわからない。

彼女がただ泣いていたからではおそらくない。

その悩みや葛藤に共感したから涙が流れたのだろうか。その可能性は高いが、正直「泣くほど共感したのか?」と問われると、そこまでではない(似たような葛藤を抱えていた青年は過去他にもたくさんいたが、それと今回のケースの違いがわからない)。

このことが、未解明の謎として未だに私の脳内に居座っているのである。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。