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時間の「投資」分が減っている気がするのです。

自分自身が今すごく脆弱な状態にあるような気がしている。脆弱という表現が適切かどうかわからないが、目の前の刹那的な、性急な要求ばかりを満たしながら生きているように感じる。

確かにそれも1つの生き方ではあるのだが、本当はもっと有意義な要求を満たしながら生きていけた方が、より豊かな人生が送れるような気もするのだ。

何かそういうものに憑りつかれてしまったような感じもする。いわゆる、SNSのイイネから得られる承認による快楽とか、手近な人助けをすることから得られる貢献感による快楽とか、そういうものによって(のみ)生かされているような、そんな感じがする。

いずれも完全な悪ではないことには間違いないのだが、それにどっぷり浸かってしまうと、ある種の人間性からは離れていくように感じるのだ。

私は昔はSNSをやらなかった。一番最初に始めたのは確かMixiで、その後すぐにTwitterが隆盛したので、伴ってアカウントを作ったが、特段ツイートすることが無かったのでいずれも見る専になり、見る時間も無駄だと思ってしまって一時はアプリもアカウントも全消去していた時期がある。

後に必要に迫られて再びSNSアカウントをつくることになるのだが、それまでの期間を振り返ると、SNSに不用意に時間を取られることもなく、心穏やかに過ごせていたような気がする。かといって、自分の主要な時間を一体何に使っていたのか、ほとんど記憶はないのだが。

研究室に入るまでは、授業外の時間で真面目に勉強するようなタイプではなかったはずだが、一方でなんだかんだと忙しく過ごしていたはずでもあるので、その有り余る時間を一体何に使っていたのか、今では心底不思議だ。

ただ、そういう時期に比べると、確かに取り組んでいることの質は変わってきている気がする。当時は何か長期的な目標に向かって頑張っている過程の中で、小さい毎日・毎月のルーティン的な生活を行っている感覚があったが、今はそういう長期的なビジョンをあまり持ち合わせていない状態だ。

とりあえず、目の前の安易に快楽を得ることができる物事に手を付けては、それっきりでおしまい、という生活になってしまっている気がする。

要は、自分の時間が「投資」的に使われる分が減っているように感じているのかもしれない。そこに対して、何らかの不安要素を感じているのかもしれない。

とはいえ、結局「本気でやるかやらないか」が大きなファクターではあるのだ。客観的にはどんなに無為な時間の過ごし方だとしても、その本人が心の底から本気でそれに取り組んでいるのならば、それは本人の幸福・充実のためには大いに意味のある行為になるだろう。

今の私には、その感覚が欠けているのだ。

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