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#9 真の自由とは何か?

 真の自由とは何か?自由であるとはどういうことなのだろうか?

 私は、人間社会において人間に保障されるべき自由とは、自分自身の生き方を決める「公理系」を自由に設定できることだと思う。
 ここで言う「公理系」とは数学用語であり、ある数学の世界を作り上げるために仮定される前提条件の集合のことである。例えば、自然数論におけるペアノの公理や、ユークリッド幾何学における5つの公理が有名である。
 自分自身のもつ公理系とは、自分自身の意識的・無意識的な思考や行動を支配するものであり、自分自身の価値観を反映する思考の原点である。数学的に言うと、思考の座標軸の取り方のようなものである。就職活動の際などに求められる自己分析とは、この自分自身の持つ公理系を自覚することに他ならない。我々の思考や行動は、この公理系を基に論理的に(本人にとって論理的に。客観的には間違っている可能性もある)帰結されるものであると考えられる。

 したがって、我々の思考や行動に自由を保障するためには、その論理の出発点たる公理系の設定を自由に行えることが必要なのである。ただし、この公理系はその特性上、なぜそのような公理系を持つのかを問うことはできない。それは、数学の世界において公理系が成り立つことを仮定しないと、そこから導き出される推論が意味をなさなくなってしまうのと同様に、それが成立することを認めなければ、自分自身の思考や行動について語ることができないからである。つまり、公理系を自由に選択することはできるが、なぜその公理系を選択するのかについては、論理では説明できないということである。

 では、その公理系はどのように定まるのだろうか?それは、本人が元々持っている本能的な感覚と、感性等に裏打ちされた情緒的なものによって定まるのである。したがって、自由により良く生きる、すなわち自分にとってより良い公理系を選択するためには、多様な価値観に触れたり、教養を身につけることで少しずつ感性を耕す必要があるのである。

 しかし、この定義を考えたとき、私の頭の中にはいくつかの疑問が浮かんでいた。それは、ここには公理系を選択できる自由はあるが、それを選択した瞬間にその公理系に縛られて生きることになるのではないか、それは本当に自由なのだろうか、ということであった。
 また、我々を取り巻く環境の変動スピードが速まり、不確かさが大きい現代社会においては、ある1つの公理系としての価値観を確定的なものとして受け入れることは得策ではないかもしれない。なぜなら、ある1つの価値観に縛られることが、環境変動に対する素早い適応を阻む可能性があるからである。この自分の身を守るためには、自分の身に降りかかるあらゆる物事に対して常に疑ってかかる力が求められるが、このとき、自らが設定した公理系さえも疑わなければならないことになり、これは自分の公理系を設定すること矛盾するように思われるのである。

 では、どうすればよいのか。
 私の意見は、自分自身の公理系は常に暫定版、β版であり、可変なものであると割り切って認識するしかなく、その暫定版を常に変更する自由があると認識するべきだ、というものである。
 前述の通り、常に自分の公理系を疑い新たに選択できる自由は必要だが、自分自身の公理系が定まらなければ、その時点での自らの人生に関わる重大な意思決定を合理的に行うことが不可能となってしまう。そこで、様々な価値観に触れ、教養を学ぶ努力を重ねた上で、人生のあるタイミングにおける自分の公理系を暫定的に設定し、ひとまず意思決定を行うのである。それが正しかったかどうかを後に検証し、公理系に問題があった場合は、気づいた時点で公理系を修正すれば良いのである。

 自分自身の公理系を無批判に信じることはせず、常に自由に選択し、更新する気持ちを持ちつつ生きることが必要であるのだと思う。

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