集団を積極的に離れたくなるときもあるのです。
集団に対する帰属意識が薄れるタイミングというのは、人間だれしも必ず来るものだ。
その集団のレベルも様々で、例えば家族の場合、小学生の頃は両親と過ごす時間が多かったとしても、中学・高校へと進めば交友関係が広がったり部活が始まったりして、自然と家族と過ごす時間は相対的に減少していく。これによって、徐々に「家族」というものへの帰属意識が薄れていく可能性がある。
また、中学・高校での友達関係というのも不思議なもので、ある特定の仲良し集団が形成されると、それは一生帰属意識の継続する友達集団になる可能性もあるし、「あの頃はあんなに仲良く遊んでいたのに、今となっては全く音信不通である」という(過去の)友達集団もある。
一般的には「帰属意識」という言葉は、もっと大きい集団に対して使われる言葉かもしれない。上記のような少人数レベルではなく、学校や職場、地域や国家レベルの集団にまで使われることの方がむしろ多そうだ。
なぜそのような話について考えているかというと、人はどういうときに「その集団を離れよう」と思うのだろうか、という疑問がふと湧いたからだ。
まず、「この集団の一員でいたい」と思えるような集団はどんな集団かと考えると、例えば一つの表現として、「ここは自分の居場所だ」と感じられる集団、と言える。
自分がありのままの素の自分として受け入れてもらえるという保証や信頼があり、そして実際にそうあれる集団であれば、「積極的に離れる」という決断をすることはないだろう(他の集団との兼ね合いで、相対的に距離が遠くなる可能性はある。例えば、高校時代の友人とは、会えばあの当時のように仲良く話ができるが、家族かのように頻繁に会う人たちは少数派だろう)。
では、どういうときに「積極的に離れる」という決断をする可能性があるのか。
それは上述の逆を考えればよくて、「自分の居場所ではない」と感じる状態にあるときだろう。もう少し具体的に言うならば、自分の素を出すことができないとか、自分自身のことを受け入れてもらえないとか、そういうときだ。
よく言われる言葉を使えば、「心理的安全性」が保たれていない集団だ。そういう集団の中にいると、人間はその集団に対する帰属意識を失いやすい、ということになる。
この「心理的安全性」を、自分にも周りの人々にもいかに確保していくかが、集団に帰属することへの幸福感に重要なのではないかと思うのだ。
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