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細かい差異も意味の違いを生むのです。

学生を含む何名かで研究打ち合わせをしていたとき、ある学生が出してきた資料の中に、とある実験データのグラフが掲載されていた。

そのグラフを見て1人の先生が、「なんでこのグラフは実線で描かれているの?」と発言した。

なぜこれを問うたかというと、実験で得られるデータには、時間的に連続なデータと不連続なデータの2種類があり、それを適切に表現できているかどうかを問うためだ。今回の実験では装置上の特性によって不連続なデータのプロットとして得られるはずなのに、それが連続的な表現である実線を使って描かれていたことに対する違和感の表明だった。

その学生は、理由を上手く答えられなかった。そこまで考えていなかったということだ。

なぜこういうことが生じるのか。

確かに、実験で得られた生データをプロットしてグラフを作成しようとしたとき、Excelなどの表計算ソフトウェアを使用すると、自動で実線グラフを描いてくれる場合も多いだろう。そして、それをそのまま資料に掲載すれば、実線グラフのできあがりだ。

プロットとして描かれたグラフと、連続的なデータとして描かれたグラフでは、それぞれ意味が異なるのだということを知識として知らなければ適切な書き方を選ぶことはできないし、知っていたとしてもExcelなどの自動生成に慣れてしまうと、そういう点に無頓着になってしまう可能性も高まる。

大事なことは、一見すると細かい差異であっても、その違いによって表現していることの意味が変わってしまい、それを解釈する相手とのコミュニケーションに齟齬が生まれる可能性があることを理解することだ。

とはいえ、上記の例に特化して言えば、こうした実験データをグラフで表現する際に、一度手書きでグラフを描いた経験があるかどうかも1つの認識の違いを生んでいる気もするな、と思った。

何らかの実験データを手書きによってグラフ化する場合を想像してほしいが、当然ながらいきなり実線で描き始めることはできない。全体的なデータの挙動もわからなければ、事前に法則性が分かっているわけでもないからだ。

だから、地道に一点ずつプロットしていくしかない。そして、出来上がったプロット群が、そのままグラフになるのである(実線として表現して良いものはかなり限られる)。

この感覚を体で持っているかどうかは結構大事な気がしている。これも、広く言えば「体験による学び」の成果なのだと思う。

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