「聞く力」とは「柔軟に話を聞く力」だったのです。
昨日の「会話のキャッチボール」の話で、自分はキャッチャーの立場を取ることが多い、と書いた。
今ここに書いているように、文章の力を使って自分語りをするのは自分にとって容易だということはこのnoteでわかったが、自分が会話のタイミングで自ら自分語りをすることはほとんどない。
誰かに質問されて答える、という形ならあり得るかもしれないが、「自分の話を聞いてもらいたい」という欲求はあまり持ち合わせていない。
これを野球的に表現するなら、「意識的にピッチャーになったことはほとんどない」ということになる。
これ自体は1つの特性であり強みでもあるが、弱みにもなる、というのは昨日書いたとおりだ。
会話においてキャッチャーができる人間は、「話を聞いてもらいたい」人にとっては重宝される存在である。自分が話すのが好きだったり、考えを聞いてもらいたかったりする人にとっては、話を聞いて受け止めてくれる存在は大事で、私はそういう人とはおそらく良い関係が築けると思う。
ところが、そこまで振りかぶっているわけではなく、単純に「会話を楽しみたい」とか「コミュニケーションそのものを楽しみたい」と思っている人にとって、私は扱いづらい存在だったかもしれない。私があまりにもキャッチャーに特化したムーブを取り、会話が促進するようなやり取りを生まない場合には、相手側に「あまり話したくないのかな」などと思わせてしまう可能性がある。
上記のことを整理すると、やはり会話におけるキャッチャーとしての能力も、時と場合に応じて適切に使い分けていかねばならないことがわかる。
例えば、人にはおそらく「話を聞いてほしい」というタイミングと、「会話したい」タイミングがあるだろう(これはもしかしたら普通の人にとっては当たり前のことで、あまり区別されたり意識されたりしないのかもしれないが、これら両方の感覚を特に持たない私のような人間にとっては、こうして言語化しないと到底理解できないのである)。
「話を聞いてほしい」という場合でよくありそうなのは、愚痴や相談を話すタイミングだ。一方、「会話したい」という場合では、単なる雑談や歓談のタイミングなどがあるだろう。
「聞く力」というのはおそらく、こうした様々な「会話」のシチュエーションの中で、適切に相手の要求に合わせて自分の役割を変えながら、「柔軟に話を聞く力」のことを指しているのだ。
そういう力をなんとかうまく身につけていきたいと思った。
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