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会話のキャッチボールができていなかったのです。

「会話のキャッチボール」という言葉があるが、私は会話のキャッチボールができていないのかもしれない、とある人に気づかされた。

確かに言われてみればそうか、と28年間生きてきてやっと自覚できたかもしれない。

というのも、私は会話においては徹底的に聞き役になることの方が多く、それは「キャッチボール」というよりも、単に「キャッチャー」をしていたという表現の方がしっくりくる気がするからである。

相手から投げられた会話を始めるボールをキャッチすることはあっても、それを積極的に投げ返すことはしない。とにかく受け取るだけ(会話において返事や返答をするだけで、その先の「会話」に発展しない)なのである。

これは別に、相手と話したくない態度の表れであるとか、そういう負の感覚は私の中に全く無くて、むしろ好意的に話を聞いているだけのつもりであることの方が圧倒的に多い。しかし、そういう態度から何らかの違和感を察知する人もいるらしいようだ。

ただ、こうしたキャッチングの能力というのは1つの才能ではあり、コミュニケーションにおいて強みとして働く要素だとも思うのだ(自己弁護しているようで恐縮だが)。

それは、コミュ力関連啓発本の類で「聞く力」(いわゆるキャッチャー力)が取り沙汰されることが多いことにも表れているように、「多くの人間は自分の話をしたがっていて、その欲求を満たせる人間がより信頼を得ることができる」という側面があると思うからだ。

しかし、それが極端化すると先ほどの私の事例のように、「とにかく受け取るだけ」になってしまいがちになる。

本来の聞く力とはそうした「キャッチング」の能力だけではなく、相手の話をより促進するような聞き方をすることも含まれる。

言わば、相手のピッチングがよりスムーズにいくように「ミットを構える位置」を工夫したり、より良い「返球」をしたりするような会話の技術も、会話におけるキャッチャーの技術なのである。

一口に「会話」と言っても、こうした技術論が詰まっていて、適切にキャッチボールを続けるためには一定の努力が必要なのだと思わされた。

会話のキャッチボールができていなかったということに気づいた今日この日から、地道に頑張っていくしかない。

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