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意味を捉えて行動を決める力が必要なのです。

今年もまた地域の子育てコミュニティで行く夏のキャンプの取組が始まったのだが、今年は例年に比べて特に参加者が少ないので、なかなか大変な船出になりそうだ。

先日早速、第1回の青年全体会を開催して青年集団を集めた。今年もまた実行委員長を務めることになった(してしまった)ので、全体会の司会として振る舞うわけだが、その中で1つ気になることがあった。

それは、今年初めて青年集団に加わる高校1年生の男子2人組の様子だ。

会議中は配布された資料を読み合い、その内容について印象に残ったところや、大事だと思ったところについて交流する。読み合わせでは司会の私が実行委員を指名して分担して文章を読んでいくのだが、このとき私が良くやるのは、その内容をどれくらい読めているかを把握するために、参加者の様子をジッと観察することだ(こう書くとちょっと気持ち悪い感じがしなくもないが、決して悪い意図はない)。

読むことに集中できているか?どれくらいの頻度で顔が上がったり集中力が切れるか?今読んでいる箇所と同じ部分を目で追っているか?それより前を読んでいて追えていないか?どんどん先を読んでいくか?

こうしたことを観察するだけでも、その参加者たちの理解度や参加姿勢は結構よくわかるものだ。

話を戻すと、前述の高1男子2人組を観察していて気になることがあった。

それは、1人は資料を目で追いながら話を聞いているように見えたが、もう1人はほとんど資料に目をやらずに空中を見つめていて、また、実行委員が読んでいる内容を聞いている様子にも見えなかった。

この様子を見ただけでも、あ、彼は集中できていないな、ということはよくわかるわけだが、話はそれだけでは終わらない。

このキャンプのために使用する資料は、当然1枚だけということはなく、何枚も説明資料や別紙があったりするので、頻繁に使う資料を移動しながら内容理解を作っていく必要がある。

この資料のページを移るタイミングにおいて、我々司会は一応みんながわかるように「何ページを見て」とか、「何枚めくって」という指示を出すわけだが、彼らの動きがいつもワンテンポ遅いことに気づいた。

よくよく観察してみると、彼らは司会の「説明の言葉」ではなく、「周りの人たちの動きや様子」に反応して資料をめくり始めたり、どのページを見るべきかを決めているように見えたのだ。

この状況に対して私が何を思ったかというと、「もっと集中してくれよ」とかそういうことではない。

このキャンプ活動に対する心配というよりも、そもそもこれから彼らが生きていくにあたって苦労するのではないか、という心配を感じたのだ。

例えば、何かの仕事をすることを考えたとき、多くの場合は誰かから言葉による指示を受けて、その指示の通りに実行することによって仕事を遂行するはずだ。

そのためには、①人の言葉を「意味」として捉えて、(②できればその上で考えて、)③自分の行動を決められるかどうか、が重要になってくる。

これに照らすと、前述の高校生たちの「周りの人に同調する形で行動を決めている」という点で、聞いた言葉の「意味」を捉えられていないのではないか、と思ったのだ。

と書きながらも、ちょっと大げさに捉え過ぎかなぁと思ったりもした。単に聞こえなかっただけかもしれないし、本当に自分に言われているという意識さえあれば実行できるのかもしれない。

しかし、今現在自分が置かれている状況を「自分ごと」にできるかどうかと、他者の話を「意味」として捉えられるかどうかは、人間が生きていく上ではとても重要な力だと思うのだ。

そういう力が高校生の時点で未熟だとすると、結構心配だなぁと思ってしまったのだった。

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。