野球中継はペンライトを振りながら見ろ


 野球中継は好きだろうか。



 僕はめちゃくちゃ嫌いだ。
 

 単純に面白くないし、長いし、応援がうるさいし。

つまらないだけならまだしも、延長して見たかった番組を繰り下げたり放送時間を削るのだから、子供の僕にとって野球中継は完全に敵だった。

スポーツ新聞のバカみたいな文字の大きさや派手さも、ラジオから毎朝聴こえていた六甲おろしも全部気持ち悪かった。

なぜあんな面白くないものが社会に認められ、各種媒体で大きな顔をしているのか不思議だった。



そんな野球中継が嫌いな僕は、しかし野球自体が嫌いなわけではなかった。

でかい顔してテレビ欄をひっかきまわし、全く面白くないのに国民的スポーツとして君臨しているのが嫌なだけで、キャッチボールやバッティングは大好きだった。地域の少年野球部に所属していたし、練習にも休まずいっていた。

しかし、好きが高じて入部した野球部でも大嫌いなものが一つあった。


それは試合だった。



 小学校の休み時間に行うサッカーやドッジボールの試合は、たかが20分の出来事だがいまだ鮮明に思い出すことが出来るほど面白かった。放課後も五時まで延々とサッカーの試合をしていたし、毎朝六時に起きて野球をしていた。

ずっと友達と何らかの試合をしていた記憶がある。

しかし同じころやっていた少年野球の試合は大嫌いで、勝ち負けにも全く興味がなかった。これはなぜだろうか




 思うに、それは主体性の有無だと考えられる。


休み時間のサッカーはプレー自体が楽しく、結果はその過程を言語化したものでしかなく本質ではなかった。また、勝ち負けそのものに意味を見出す友人もいなかった。面白いからサッカーをしていたし、サッカーを面白くしていたのは自分たちだった。月並みだが、自分たちが主体的に試合を作っていた。


 しかし少年野球の試合はサッカーとは逆で、勝ち負けに重きが置かれていた。そんな野球の試合は僕にとって苦しいものだった。

どんな良いプレーをしようが試合に負ければグラウンドを走らされ、どんなミスをしようが勝てば監督の機嫌はよかった。自分ではなく結果だけが評価される気持ち悪さがそこにはあった。
 勝ち負けの二元論を軸に進行する野球の試合は、子供だった僕を蚊帳の外に、しかし子供達を主人公に進行する不思議な時間でつまらなかった。




では、主体性など一切存在しない“野球中継”が、これほどまでに人気を博しているのは何故か。

それは恐らく、野球中継の面白さが知識に依存しているからだ。


 

2008年だったと思うが、佐賀の公立校が甲子園で優勝したことがあった。

 野球のみに一意専心し、良い環境で良い指導者のもと野球をしていたであろう私立の人間よりもその年の彼らは強かったのだ。

 このことはテレビでとても大きく取り上げられていた。今の今まで記憶しているくらいだからその取り上げられ方は尋常ではなかったのだろう。

コンテナを改造して部室を作り、創意工夫を凝らして練習していたとテレビで見た記憶がある。


なぜ彼らはそんなにも注目を浴びたのだろうか。 

それは多分、彼らの存在を近くに感じられたからだ。


 

ほとんどの人間は野球のためだけに県外の私立校へ進学しない。だが甲子園で優勝するのは、そんな選りすぐられた私立校の連中だ。彼らの生活や練習は、適当に勉強して適当に部活をした“普通”の人間の想像を絶するものだろう。そして想像を絶するがゆえ、視聴者は彼らの努力に思いをはせることが出来ない。

それに比べて、野球のためだけでない進学をしただろう彼らは、その私生活を推して測ることが視聴者にとって容易なぶん感情移入しやすい。

多くのことを知っている気になれるので、それだけ公立校の優勝は、普段野球を見ない層にも受け入れられ、センセーショナルなものとなったのだろう。

 




 知ることによってただの高校生を闘魂あふれる高校球児にまで限定し、ド根性で勝ち上がる熱血チーム、熱血キャラクターとしての一面のみをキャラクターとして消費できる形にする。



佐賀の高校球児たちは“公立校”という要素によって、例年の私立高校よりも濃いキャラ付けが行われ人気を博した。

キャラクター化は野球を応援することにおいて重要なようである。






ではプロ野球選手のキャラクター化はどのように行われているだろうか。

グッズの販売や選手モデルの用具など、高校野球に比べてより商業的な側面でのキャラクター化が著しいが、根本は高校野球同様であると思われる。



例えば


・ひたむきに頑張る仲間想いの選手。

・挫折を味わった天才選手。

・奔放で野球しかできない選手。


適当に今考えたが、とにかくその選手の人格が分かりさえすればなんでもいい。


 加えて打率や配球の癖、狙い球などの野球選手としてのデータも報道してあげれば、ただのヒトだったものが特定の誰かになり、さらに大衆に消費可能なキャラクターとしての野球選手にまで単純化される。

ファンはそれらの情報から下馬評や最強選手ランキングなどを作成し、キャラクターとしての選手で人形ごっこを行いギンッギンに勃起し射精する。








 なにかを語るとき、それをそのままに語ることは不可能であるため、類型化(キャラクター化)を行わざるを得ない。これは野球選手に限った話でなく、言葉というものの性質上仕方がない。


 例えば“山”を“山”そのものとして語ることが不可能なように、“人間”を“人間”そのものとして語ることも不可能である。


 しかし、“山”を単なる山以上の解像度でもって言語化することで“山”そのものに限りなく漸近することはできる。その山の標高、地質、登攀ルート、植生、育む生態系や登山者の経験談などによってその山に対する造詣は深まっていく。

 だがこれは非常にめんどくさい作業で、莫大な時間、お金、労力がかかる。そして何よりも、興味関心がないとできない。



 僕の住む平群町は四方を山に囲まれた町で、屋外で山を見ず活動することは不可能に近い。それでも、僕はそれらの山が何という名前で、いつからそこにあって、どんな木が生えてどんな生き物がいるのか全く知らない。

 毎日見ている雲に関してもそうで、積乱雲以外に“雲”を分類することは僕には出来ない。



山を“山”以上に、プロ野球選手を“プロ野球選手”以上に見ることは、意識的に知ろうとしないと不可能である。




 野球選手というフワーっとした概念を、特定の誰かにまで限定していく作業がキャラクター化であり、キャラクター化を行うことで野球中継も楽しめると述べてきた。


 知らないおっさんが棒で球を打つ光景のリピートは地獄だが、自分が知り尽くした18人の選手が馴染み深い球団を背負い、本気でプレーすることで物語を作り出す様は、見応えがあるものだろう。
 

 









 話は変わるが、僕はいま日向坂46というアイドルグループを熱心に応援している。


 これまでの僕はアイドルに全く興味がなく、アイドル好きの友人を煽り、絶縁されたこともあるくらい無理解だった。


中学生の頃AKB48 が爆発的に流行したが、記憶しているのはヘビーローテーションのPV内で下着姿のメンバーを横パンしていく映像と、姉妹グループSKE48の楽曲、片思いfinallyでメンバー同士がキスをする映像のみである。つまり全く興味がなかった。



 そんな僕が日向坂46を応援し始めたのは、ある深夜ラジオがきっかけだった。

Radikoをプレミアム登録していなかった当時の僕は、KBS、MBSの番組と音泉、響での声優の番組、そしてpodcastの素人配信ばかり聞いていた。素人の番組も面白く、なんども聞き返すような番組はあったが、やはり芸人がパーソナリティを務める“TENGA茶屋”、“さしよりからし蓮根”、“あっぱれやってまーす土曜日”の三つの番組が飛びぬけて面白かった。

 小倉優香の生放送ぶっこみ引退騒動から、あっぱれやってまーす という番組名を知っている方も多いかもしれない。
 そんな、あっぱれやってまーすの土曜日にレギュラー出演していたのが、のちに僕をドルオタの沼に叩き落とすことになる日向坂46メンバーの斎藤京子だった。


 あっぱれ土曜(以下やる土)はTOKIO城島、さらば青春の光、尼神インター、日向坂46斎藤京子の六人で毎週土曜24時から25:30まで放送されており、いまでこそ日清食品がスポンサーにつくような人気番組になり、メンバー同士の掛け合いも楽しいものとなっているが、放送当初はすさまじいものだった。
 

 番組が始まった2020年4月26日はコロナウイルスが猛威を振るい始めた時期であり、斎藤京子はリモート出演だった。
 リモートに加えて慣れないラジオ仕事のためか、放送初期は他メンバーとの会話がほとんど破綻。また地声が低いため不機嫌だと他メンバーに勘違いされていたのか、尼神インター渚にガチで嫌われており(多分違うけどそんな風に聞こえてた)、「パスタの煮汁が何か分からない」などの発言から不動のクレイジーポジションを獲得していた。



次第にスタジオでの活動が増えていき、メンバーとの接触が増え始めると、斎藤京子の浮世離れした行動はさらに加速を始める。

 脈絡のないゲラ。城島に対してすら行われる忖度のない発言。苛烈な東袋いじり。そして抜群の歌唱力。

 そんな斎藤京子の振舞いは、お飾り程度にしか認識していなかった僕のアイドル像を破壊しつくし、強い興味の対象になっていった。


 youtubeに違法アップロードされている斎藤京子のまとめ動画を見、冠番組である日向坂で会いましょうを見はじめ、そこからは芋ずる式に他メンバーにハマっていった。
 各メンバーの生い立ちから性格、メンバー間の関係やグループの趨勢について知ったころにはもう手遅れで、適当なメンバーの発言から想像を膨らまし、勝手に涙を流し始める狂人に成り果てていた。

 鹿目まどか並みのエントロピーを過去のエピソードからまとわせ、莫大な情報量となった彼女らの一挙手一投足に価値を見出す。


 バラエティの添え物で、踊りも歌も中途半端な集団。そしてファンが猛烈に気持ち悪いのがアイドルだと思っていたのに、アイドルについて知れば知るほど彼女たちの魅力が増していく。

 アイドルは知れば知るほど深みにハマる沼である。





このように、僕には面白く見えないプロ野球もアイドル同様深みにハマれば見えてくるものがあるのだろう。

僕が斎藤京子の一言一言に感銘をうけ、その歌声に滂沱の涙を流すのと同じく、プロ野球オタクは選手のバッティングや投球に意味を見出し楽しんでいる。多分

野球中継とアイドルのライブは、予備知識と間断なき観察によって面白さを見出すエンタメであり、根っこの部分では似たようなオタク根性に支えられている。

応援歌はコールに対応するし、ジェット風船や応援旗をぶん回す様はさながらオタ芸である。ライブ前後には物販をあさり、日常生活を営みながらも雑誌ネット、テレビなどからさらなる知識を得て次のライブに備える。

このようによく似た野球中継とアイドルであるが、ひとつ違うのはゴールデン帯に何時間ものさばる厚かましさである。そして僕は野球中継のその点が一番、決定的に嫌いなので、これからも野球中継は見ないだろう。





野球中継とアイドルの類似点、野球中継に対する愚痴を書き散らし、なぜ野球中継が嫌いかがなんとなく言語化できたため、これからは芯をもって野球中継を嫌い、より一層日向坂46を応援していきたい。





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