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コード進行とメロディーに関する本質を整理してみた(後半有料部分あり)

こんにちは、作曲家のペンギンスです。

コード進行とメロディーについて、人はどうしてこうも語りたがるのだろう、と思うことが多い今日このごろです。

まずは、雑談から。そのあと、本題に。

雑談1)NiziU「Step and a step」Aメロ3小節目(0:15)のメロとコード

この楽曲の0:15「安心して」の「て」がF音であるのに対して、バックトラックとぶつかっている=アヴォイドの音なのではないかという議論がweb上で散見されました。違和感があるから、バックトラック側で何らかのコードチェンジで避けるか、メロディーを変えたほうがよかったのではないかという話ですね。このようにリリースされた楽曲についてリスナーがあれこれと是非を議論することは素晴らしいことであると、まず思います。

そのうえで、私は「アヴォイドになっていることは一般的にあまりよくないが、そもそもこの箇所はアヴォイドではないのではないか」という立場です。

メロディーがF音に対して、よく聞くとバックトラックはシンセによるpluck音のコードだけなんですが、そのコードは「A,D,G」という積みで、ベースと合わせて考えるとDsus4ということになります。Fナチュラルのメロはsus4とはぶつからないのでセーフ、と考えましたがどうでしょうか。

また、こんな例もあります。

例2)Mr.Children「彩り」歌い出し(0:17-0-19)のメロとコード

歌い出し「ただ」の「た」がC音であるのに対して、コードはストレートにGメジャーであるように聴こえます。だからなんだと言われそうですが、これって正確に言えば「Gメジャーの構成音のうち、三度のBナチュラルが、メロディーのC音と半音で接しているから、いわゆる「ぶつかっている」状態である。Gsus4にして回避すべきだ」という話になるんですね。でも、実際聴いてみて、その処理って必要でしょうか?GメジャーにCのロングトーン、そんなにsus4で回避すべき話でしょうか?

このような箇所はとかく議論になります。メロディーとコードが「ぶつかっている・いない」というものですね。もちろんぶつかっていると個人的には美しくないと感じますが、その前提をおいてもなお、例1ではトリッキーに聴こえるメロが実は巧妙にコード側で回避されてぶつかっていないし、例2ではシンプルきわまりないメロだがぶつかっていると判定される瞬間もあり、しかしいずれの曲も、それで別に構わないように思えます。

このようなコードに関する議論は日本語でインターネットを利用していると頻繁に目にするように思います。いっぽうで、「グルーヴが楽器同士で揃っていない」とか「同じ曲のセクション同士でグルーヴが違う」ことも、同じくらい議論すべきイシューであるように思うのですが、そこまで議論の土俵に上がりません。このような「音楽を論じるといえばまずコードワークの話が先にたつ」ということ自体がひとつの特異な現象であるように思います。日本語での音楽論議がコード(和声)偏重となるのはなぜなのでしょうか?

私の仮説では「もともと世界のポップスの中でもクラシックや学校唱歌の影響を強く受けたジャンルがJ-POPであるため、それらの音楽においてタブーとされるものがそのままJ-POPにおいてもタブーとされているのではないか」というものです。西洋音楽の古典的なセオリーが受け継がれているものの、実際のリスナーの受容とギャップがあるのではないかということですね。

そしてまた別の雑談。

これは、リリースされた楽曲に対する議論ではなく、作曲家として過ごしているときに後輩や学習中の方などから質問をもらう内容で考えさせられたものです。曰く、

「曲のキーがわからない」

「曲のコード進行を、パッと聴いて度数(IV-V-III-VIといったもの)で表現できない」

といったものです。でも、わからないとなにが困るのでしょう?もし、必要のないことで自分の才能を疑い、落ち込んだり悩んだりしているなら、かなしいことです。

すばらしい曲を作れないとか、クライアントが求めている曲を作れないならば、確かにそれは問題であり、解決すべきです。しかし、そうでない場合、あらゆる理論的問題はメインの問題ではなく、サブの問題にすぎません。理論に首を突っ込みすぎることで、メインの問題(良い曲を作る、クライアントを満足させる)がおろそかになるようでは本末転倒です。

また、確かにコーライトをメインとする場合には、クリエイター同士の共通言語を使うべき、というコミュニケーションの事情があります。でも、それだって本当にコード理論を理解したうえでないと会話ができないものでしょうか。大切なのは「フェアであること」だと思います。片方がすごい才能を持っているけど理論は知らない。片方は天性の才能はないけど理論派で着実な仕事ができる。だとしたら、お互いに才能と理論で協力し合うことができれば、それで良いのではないかと思います。

「良い音楽が作れること。(コーライティングの場合)フェアであること」このことの実現に障害となった場合、はじめてそれは真の「音楽的に重大な問題」であると言えるでしょう。

雑談を2つ、してきました。

この雑談を冒頭においた理由は、両方とも現代のJ-POP作曲が、コードという存在に右往左往させられているように見える場面だったからです。コードという馬を乗りこなして、音楽というフィールドを自由に駆け回るためには、コードに支配されるのではなく、コードを支配することが必要です。

というわけで今日は、良い音楽を作り、クリエイター仲間とフェアな関係でいられるための音楽理論をご紹介したいと思います。今回、一応僕なりに長いこと考えてきたノウハウや発見をある程度労力をかけてセオリー的なまとめかたをしたので、トライアル的にここから有料とさせてください。ここまで書いてきたことの具体論であり集約となっていると思います。

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