二〇一八〇一自(21)

できるだけあるがままの自分の姿を見せたい。嘘をつかなければやっていけない仲なのであれば、それは本質的に合わない同士。相手も自分もおもしろくない。無理してその人に合わす必要はない。僕はそんなことをよく言っている。だから僕は人より遠慮とか気遣いとかが少ない。ザッツライトである。
僕には歳が四つ上の長男がいる。(僕は彼の誇張したような喋り方や笑い方が嫌いだ。けれど時折みせる彼固有の人格から出る優しさみたいなものは僕のなかには存在しないような気がして嫌いとは一括りにできない。)彼は、夜遅い時間にまったく似合わない音量でテレビをつけたり、目覚ましのアラームを永遠に鳴らしつづけたり、家の中を移動するとき甚だうるさい足音を鳴らしたりする。彼から生み出されるまるで家中の隅から隅までに響かせてやろうかとでもいう忌まわしき音たちは、家の中にいる僕をいつも不愉快にさせていた。その時僕はきまってこう思う。どうして彼は気遣いができないのだろう、どうして皆のことを考え静かに歩くことはできないのだろう、どうしてそんなことにも気づかないのだろう、と。そして、次にこう考える。僕は矛盾しているじゃないか、と。僕は嘘を嫌っているのではなかったか、ありのままの自分でいることに価値を感じていたのではなかったか、と。そして、次に自分自身に失望する。
結局、僕は自分をその時々都合のいいようになにかと理由をつけて後から合理化しているだけなのだ。周りを批判して自分を守る。今までいくつもの綺麗事を言って満足感を得てきたけれど、そんな綺麗事を後から言うのは本来の自分が汚いと知っているからだ。そう何度も気づく。気づいてしまう。けれどこれも当然である、とも気づいてしまう。そのときそのときの自分の直観、感情にぴったり合う思想をどこからかみつけてきて自分を正当化する。世の中にはあらゆる価値観があふれている。結局、どれを選び、どれを拾うかである。どんな姿で生きていてもなにかは僕たちを肯定してくれる。
相手に攻撃されれば、自らの体のなかにある水晶に体を預け、心を落ちつかせ、力を蓄え、自信をもつ。そこから相手をよく見てみると、相手も同じである。みんな同じである。けれど一つの水晶だけに守りつづけてもらうことはおそらくできない。それはいつかの違和感を生みだす装置となってしまう。僕たちはずっと違和感につきまとわれて生きていくのだろうか。そしていつか気づかぬうちに飲みこまれているのだろうか。崩壊していく大地。溶けだしていく氷山。滑落していく人々。気づかぬままたどり着くことはできるか。やっとそこからみえる景色もあるのかもしれない。果たしてそこにいるのは誰だろう。もしかすると、誰もいないのかもしれないけれど。






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