秋のワニノコ

今日は僕の友だちK君について記録を残しておきたいと思う(Kというのは別に彼のイニシャルでもなんでもなくこういうときはKかな、そう思っただけである)。

K君は僕の一つ歳上で今(2020年9月16日)は二十五歳である。顔はポケモンのワニノコを想像してもらいたい。それが一番K君の外側に広がる世界への複製に手を貸せる方法だと思うから。ただ、あんなにも周りのモノに噛みつきかかったり、いつか眼光鋭い強面に進化したりする訳ではない。彼はだいたいの時間を湖岸沿いに間違って植えられたカカシみたいに過ごしているから。

だが季節の変わり目に現れるこの世の晴々しさ、分かち合える友の美しさ、そして残酷な自分の姿、そんな話をしてくれるときにはまさしくワニノコみたいに口を開けて、少なくともその姿を見た者の心の奥に暖かい光を浴びせてくれるのだ。そんなときに生まれる彼の笑顔は夏の終わりにフライング出現する秋の空のように純粋で、遠く、そしてこの世のだれも奪い掴むことはできない。

そんなこともあり僕はK君のことを秋のワニノコと呼んでいる。もちろん彼の目の前でそのフレーズを口にしたことはない。たぶんK君はあだ名をつけられることが嫌いだから。どうしてそう思うか?

あるときー初めて会った日の帰り道だーK君が「僕は他人をあだ名で呼びたくはない。なぜか?もしその子と丸一日思いっきり遊んだとする、けれど呼びかける際に毎回あだ名で呼んでいたら、だ。僕は眠る前に今日は一体この世のだれと一日を過ごしていたんだろうと深く考え込んでしまう。だれがだれだかわからなくなってしまう。僕は違う人と喋るのはもうこりごりだ」と教えてくれたからだ。(また僕は少ししてから彼が「名前だって同じかもしれないけどさ」と蟻の鳴き声のように小さく呟いたのを聞き逃さなかった。)

だかもし僕が秋のワニノコとK君の前で口を滑らしたとしても、彼はポケモンとかデュエルマスターズとか靴飛ばしとか、そういう子どもらしい遊びを知らないから「なにを言っているんだ?そんなことよりも、」と言って月の匂いや星が飛ぶときの話をしてしまうに違いないと思う。秋のワニノコなんてK君の世界には永遠に生息しないのだ。


K君とはちょうど僕が就活を辞めた頃に知り合った。午前11時、僕が湖に面したベンチでひなたぼっこをしているときだ。彼は僕の隣のベンチに寝転がった。彼のベンチはとても汚かった。隣から彼の声が聞こえた。

「カカシの休憩なんだ」

ああ、やっと出会えた、僕はそう心の中で笑ったことを今でも覚えている。


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