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水仙⑦

冬の太陽が昨夜の灰色雲を洗い終え、つるりとした水色空に栄華を極める光の中を冷たく軽快な風が吹く。窓を開け宿の外を覗いている一人の男は久しぶりに自分の感覚で日光の色と匂いを味わっている。

宿の屋根に敷かれた無彩色の瓦は淡い夜の湿りの影を残し所々に深碧の苔を生やしている。街の中心では大量の文明を乗せて走る鉄の塊がその車輪の音を山と湖に鳴り響かせている。男は顔を上げ、深く息を吸う。美しい空には巨大な胴体を浮かし宙を飛ぶ真っ白な鳥、少し離れた所を編隊で飛ぶ黒い鳥が自然のシステムに生きる命の儚さ。左手には線路沿いに伸びた青い防護柵の一部が見える。数匹の鴉が何かに気づいたように急ぎ一斉に湖の方に飛び立つ。最後の鴉が眼界から消え、男はようやく自分の肌に寒さがあるのに気がつく。さっきまで男が眠りこけていた部屋は西側のみに窓が設置され一日の始まりを告げる美しい光は若草色の畳の隅々までは照射し得ない。それでも室内は冬の晴れた朝特有の澄み切った清々しさに満ちている。快哉を叫ぶ自然の光をたっぷり浴びた男の眼に映る世界は全体が微かに蒼みがかり自らが所有する頭と感覚が同時的に世界の輝きに感動させられたことに、男の心は無垢に弾みそのままだれかに笑いたくなる。

銀之助は布団の横でくしゃくしゃとなっていた上着を着て、両手をポケットに突っ込み煙草とライターが入っているのを確認しながら宿の一階に下りた。ロビーは庭から射し込む朝の光に照らされていた。静謐な空間は凍てつく寒さで均一に覆われ銀之助は無意識に背中を丸めた。彼は受付に目をやり宮本を探したがそこに人間の気配は微塵も感じられなかった。しんとした空間を少しのあいだぐるりと見渡していると、銀之助は自分がなにか博物館の展示物の中に幽閉されているような感覚に陥った。

背の高い窓から庭を眺めてみる。無音の陽光に植物の葉の滴が光の粒のようで昨夜の闇に輝いた離れの橙の光の神聖さは朝の世界に深く眠らされていた。天空からロビーに射し込む陽の行方を目で辿ってみる。行き着いた先は白い漆喰壁でちょうどそこには一枚の崇厳な風景画が額に入れられていた。

絵には空と水と岩山が壮大緻密に描かれ、ひとつの精神世界の最果てが提示されているようであった。銀之助は、半年ほど前だれかに誘われ、山元春挙という画家の展覧会に行ったことを思い出した。彼はなぜか今日の陽射しが照らし出すこの絵は山元春挙が生み出した作品に違いないと考えた。そして彼はなんとなく愉快な気分となった。金色の冬の光の風の中に極微の白い埃がきらきら舞う玄関をくぐる。銀之助は湖に向かった。


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