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丸いのは三日月か、満月か

夏の兆しに鶯朗らかな正午前、皆から置いてけぼりをくらった雪だるまの如き顔を飾った青年はどこか幸福そうに長い坂の下で立ち尽くしていた。

彼の眼前に伸びる長い坂は実は暇を持て余している大人たちにそうだあいつと流しそうめんをしようと思い起こさせるような美しい急傾斜で真面目に仕事をこなす税金のようにそこを登るすべての人に重い負担をかけていた。

一人黙って立ち尽くす青年の半袖は次第に夏雲水鏡の如き透明さを持ち始め、それを少し離れたベンチから見ていた僕はなぜか自分が就活の頃に腕時計をえいやっと投げ込んだ公園の大きな水たまりを思い出していた。
あの大きな水たまりは今日もだれかの本当は(そんなに)いらないものを受け容れてくれているのだろうか云々。

青年の見つめる長い坂の上では常に安易な飛行機雲が生成されては消え、生成されては消えた。それは煙草の煙のように一瞬孤独の幸福であった。

青年の頭上には名もなき渡り鳥が偶然落としていったような麦わら帽子が乗っかっていた。そのおかげで路上に照らし出される彼の藍色の影はいつも騒がしく鳴く鵯たちが黙って首をかしげてしまうほどに奇妙な型となっていた。

僕にはそれが青年本体のせいなのか影本体のせいなのかよくわからなかった。でもどうせどちらでもないしどちらでもある。そうどちらでもあるしどちらでもない。

この世界にはこの青年のように他者からの見え方の想像力を与えられずひょこっと生まれ落ちてくる人たちがいると思う。けれど彼ら彼女たちのその空いたスペースには何か潤いある物質が満ちていることを僕は祈りたい。

青年と長い坂を映し出す僕の眼の奥では知らぬ間に人々の記憶の靄を晴らしている初夏の風が吹き抜けていた。のち僕はベンチに寝転びながら天に広がる水色の空に星を探した。
鳥の影と風に揺れる木々と人間の虚しさ、それ以外何も眼につかなかった。
ふと僕はたぶんまだ自分のことが記憶に残せない、いや残らないのかもしれないなと思った。

季節を無視するだれかが出鱈目に描いた空にどこまでも囲まれ、大きな森の木の葉がコンクリートで固められた川に吸い込まれていく音が聞こえたように感じた。



彼女が三日月の欠片の秘密を教えてくれた夜が明け窓の外では新鮮な太陽が気まぐれの蒸し暑さを垂れ流していた。よってあらゆる不自然な人工物たちは部屋に閉じこもっていた。
正午前、ぼくは彼女と美術館に行った。名前だけは聞いたことのある木工職人の作品展であった。館内はひとけが無く空きビルのようにしんとしていた。二人は終始無言でばらばらに鑑賞した。

出口から差し込む光を眼の隅に感じ始めたときぼくはいつからか隣にいた彼女の視線を感じた。慎重に目を合わせると彼女の瞳の奥には朝の太陽の眩しさとは違う光があった。
ぼくは彼女の眼はこんなに丸かったっけと不思議に思った。
彼女の小さな唇はそれより小さな声を産んだ。

「やっぱりあなたは人間に興味があるんだ」

なんだかまっさらなセリフだった。

知的に思われたように感じたぼくはその浮かれをできるだけ抑えて
「人間?ああ、たしかに人間を知るのは好きだね」と返事をした。
彼女はぼくの声は何も聞こえなかったように言った。
「作品、全然見ていなかったもんね」

ぼくはうまい返しが思いつかなかった。
そしてなぜか笑っていた。
この一時間弱の自分の姿を思い浮かべてみた。
ぼくは展示物を何も見ていなかった。
あんなにあったのになぁ、なにも。
ぼくはなるほど、と心の中で頷いた。
続けて何度も頷いていた。
だんだん頷きは深くなり、危うく窒息しそうになった。



僕は駱駝のようにベンチから立ち上がった。
眼に映る景色がなんだかさっきまでとは異なる湿度で描かれているように感じられた。
僕は自分の眼の裏に広がっている水面を想像した。
穏やかな波に三日月の影が無限に広がっていた。


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