二〇一八〇一自(23)

七月。雲の向こうの夏日に照らされ熱気をまとった風が庭の木々の隙間を通り窓際にやってくる。蚊取り線香の煙はその夏の揺らぎを待っていたかのように空中へと舞い上がっていく。小さく赤みがかったところから次々に生まれる煙は、窓の方へ向かったり僕の方へと向かってきたりする。ただその風景を眺めているだけなのに、時間は進み、蚊取り線香も姿を消してゆく。いつからか庭と家の中の境界線の前に居座っていた扇風機の羽が、自然が流す分厚い風に吹かれ勝手に回っている。
今朝、目覚めると、濁った朝の光を受け止めるカーテンが表面を波打ちさせながら激しく揺れていた。重い音が聞こえなにかが絶えず移動している。外に出ても、家にいてもなにもない。外に出ようとも、家の中にいようともしない。どこにも光が見当たらない。空間と物体の間に挟まれているような。
ここ数ヶ月、今まで生きてきたなかで一番外に出ない期間が長かった気がする。今までで一番本を読んだ。内面と触れ合った、理想、いや現実と触れ合った。どれも昔に書かれたものであった。けれど、手に取る本は共通するなにかを持っていた、共通するなにかを言っていた。それは読み手が同一だからかもしれない。僕は外にいては動きっぱなしの頭を穏やかに休める場所、自分を受け入れてくれる場所を探していた、とも言える。けれどそれぞれの本の中に普遍的なものがあるというのは当然のことなのかもしれない。結局は、人間の底の底の方にあるような部分に触れることであるから。それは普段みないようにしているもの。
今の僕自身のなかに芽生えている価値観はどこにいってもとけあえない。底と表面の不一致。中間を飛ばし過ぎなのかもしれない。誰かの頭の中にいる今までの自分、自分の外観、どこからか生まれている自分がいつも邪魔をして足場をぐらぐら揺らす。穏やかな自分がいる世界は別の世界には全く通じない。全く力を持っていない。そんなことはすぐにわかる。
眠る前には毎回後悔のような諦めのような、それと少しだけ満足を感じる僕がいた。僕はだんだん独りになっている気がしていた。けれどこれはもしかしたら僕自身が望んでいることなのだろうか?こうなることで、なにか人と違うことをしてもそこまで引き止められないし驚かれることもなくてすむ。結局は保険をかけているだけだろうか。もしくは、周りの皆とは違う人である、これが自分である、そういう存在を求めているのだろうか。けれど、こんなことを書きだしている時点で自分を受け入れてくれる共感者、相手を求めているにすぎないと気づいてしまうのだから、ため息をつくしかない。そして今、どうしてため息をつくしかないと書いたのだろう。
なにか不安のような怯えのようなものを心臓のあたりから感じる。無理をしている、気づかないようにしている、言語化しないようにしている。僕はこれからもこんなことを考えてしまうのだろうか。自分の性格というのは変わらない気がする。繰り返して繰り返して繰り返すだろう。それを拒否するのか受け入れるのか。受け入れることは美しいことである。けれど拒否にもその選択をするなにかがあった。拒否を拒否して受け入れることと、拒否をそのまま受け入れること。結果の見た目は同じであるけれど中身過程が違う。いや、それだけで説明し尽くされるのだろうか。もしかしたら思いもよらない深い傷があったりするのかもしれない。みれない、もしくはみようとしないだけで。だから今は、ただこれを書いておく。





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