二〇一八〇一自(24)

午前九時。京都の交差点は騒がしかった。猛暑の予感をのせた日差しは時に姿を隠し、時に地上を照らしつける。車と人々は互いを傷つけないよう傷つけられないようすれ違いつづける。ぶつかり合うはずの熱気と冷たさが一つのビンのなかで共生している。ひび割れたビンは捨てられる。僕は避難先である日陰を求め、太陽と対等に戦おうとするガラス張りのビルを見つけた。ビルの影に守られている段差に腰をおろし、人を待つ。その人は心のこもっていない笑顔と言葉を使う。僕はそれを想像するだけでも胸の奥が不快感に包まれる。けれど、今はそれに従うことしかできないし、実際いつでもどこでもそうである。一体どうしてこんなことをしているのだろう。なぜ僕はこんなにも焦っているのだろう。意味がわからない。本当に意味がわからない。が、きっとその人もそうなのだろう。またこの繰り返しの思考をしてしまった。

雨が時折強く降っていた。けれど今はもう雀の声さえ聞こえ、気付けば窓の向こうにあった昼が終わっていた。夕日はどこにも見えず、ただ空の下の方が日没の気配を感じさせるだけであった。そのせいか、僕の部屋にはまるで秋の朝のような青白い光が広がっていた。僕はコンタクトレンズも眼鏡もつけず、小さな座椅子に背中を預けている。周りにあるものたちはぼんやりとしか見えない。どうあがいても輪郭がくっきり見えることはない。けれど、目を近づけようとも体を動かそうとも、眼鏡をかけようとも思わなかった。もう少し、この静穏な息で清涼な時間のうえを流れたかった。小石の間を流れ、緑の葉を眺め、青い空に憧れる。荘厳な滝にも出会えるかもしれない。自らが生まれたところなんてもう忘れてしまったけれど、たぶんいずれまた、それはたぶん近い、帰ってくる気配もする。
もし、目の前にあらわれる景色がずっとこんなに薄らで柔らかくて淡く青色がかっているものであれば、頭の中の世界はどんな姿になっていただろう。まわりには無数の世界が存在している。世界、人、物、自然、みんなぶつかり合いどこかに向かっている。その触れ合う面の間に大事なものがあるんだと言いたげに。そこには一体なにがあるというのだろう。今の僕にはなにもみえない。



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