二〇一八〇一自(20)

朝目覚めると、いつもとは違う天井が視界をうめていた。その下には懐かしくて異様な空気が漂い、カーテン越しの太陽は部屋に明かりを灯す。僕はなにかを考えようとして数分ぼーっとしていた。けれどその間、思考に値するようなことをなにも生まれていなかった。
右の手のひらを左胸の上に。自分の心臓をナイフで突き刺そうとする瞬間。そのとき一体なにを思うだろうか。頭の中にははっきりとしない海みたいなものが漂っているだけで、答えなんてものは見つかりそうにない。
けれど、答えがないという答えの次に出てきたのは、家族や人の姿であった。結局人が出てくる。一人で死ぬというのに、まわりには人がいる。人に対する思いが巻き起こる。そして、感謝の思いが芽生えた瞬間と同時に、この美化された思いに偽りはないのだろうかと疑ってしまう、不安に思ってしまう自分がいた。僕はそれをおそれている気がした。人を思い浮かべて人間の心地を味わっている自分。僕はそれをおそれている気がした。その中を覗くと、自分から生まれた文字や言葉や思いがどこにも見当たらずただの空っぽである自分。僕はそれをおそれている気がした。どんな物事さえどんな身近なものさえ、底の底まで説明し尽くすことができない自分。僕はそれをおそれている気がした。
一階に降りると、母親やおばちゃんがいて笑っていた。すぐに、この家の近くで一人暮らしをしている姉がやってきて、彼女も笑っていた。きっかけはわからないけれど、僕はここ五年ほど、姉とも母とも会話という会話をしていなかった。連絡事項など少量のことは喋っていたけれど、世間でよくある家族らしい会話はしていなかったと思う。けれど、この日を振り返ると、僕はそんな会話をすることができたような気がしていた。
会話の中で母がこんなことを言っていたのを覚えている。生まれるは英語でbe born。受け身、つまり私たちは生かされている、と。母親は、外では働き、家では父親と子どもの相手をして家事もしている。たとえ、それが自分の子どものためだとしてもここまでなれるものだろうか。僕は自分が少し惨めになり申し訳ない気分になったと同時に、親と子の関係について考えてしまった。
僕にはどこまでが美しいものなのかわからない。親は子を幸せにしてあげたい。それともそれは分解していくと、結局自分が不安になりたくない、心配したくないという思いに行き着くのか。けれど今の僕は、生かされているのにも関わらず生かさないということができるだろうかと自分自身に問うていた。そして自分の中にいる自分が前に進んだ感じがした。けれど、ずっと形をもたない違和感みたいなものが僕の後ろを離れない。
一体どちらが自分なのだろうか。
昨日迷惑をかけた友人にお詫びのラインを送る。申し訳ない。そのときは、恥を全身で味わうしかなかった。単なる笑い話で済むことを願っていたけれど、僕の心はもやもやしていた。すぐにやってきそうで、永遠にやってこない雲の切れ目。
自意識のない時間、外からみえる自分は一体誰なのか。経験したことのない不気味な感覚は、心臓の鼓動をなにか異様なものへと変化させているみたいだった。いつも通りの太鼓が鳴っているのだけれど、いつもと違う人が叩いている。体の中を流れる血液が、焦って乱雑に走り巡っている。実はそんな遠回しの表現に意味はまったくなくて、核心をつくことをおそれているだけ。ただただ自分を受け入れようとしていないだけ。





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