雨の日のカブトムシ

東京は雨である。せっかくの土曜日、浅草原宿渋谷あたりを歩いてみたかったのだけれど家の外は雨、そしてこの街に住むみんながネットフリックスに夢中になり冷蔵庫の扉を半分ちょい、6割程閉め忘れているぐらいに冷えている。流行りのサブスクリプションとは無縁の体内をみてみると、きっちり体温計で測ったわけではないけれどー僕は体温計を丁寧に服の下から脇へと持っていくつまり下腹部→脇ルート派ではなく、首と服の隙間から脇に最短距離でダイレクトに持っていくつまり鎖骨ー脇ルート派であるー今日もしっかり代謝活動が行われているようで本日も健康である。それは音で表現するならばキッチンから聞こえる快活に油弾け飛ばすベーコンエッグの音であるし、小学校で表現するならば担任の先生が出欠確認のために自分の名を呼んだときに学校一の純粋な気持ちで「はい、元気です」と答え勤続30年のもはや生徒に無関心であったベテラン教師の心を久々に揺らす新見喜太郎のような感じである。

カーテンレールを初心者マークを車の前後ろに綺麗に貼り付け家の前の直線道路を低速20㌔で何往復もする18歳女子大学生みたいに慎重に丁寧にカーテンを走らせると僕の背丈より少し高いぐらいの窓が、リセッシューファブリーズでもいいけれどーの中身が空になったからココカラファインで詰め替えを買ってきてよと母に頼まれ面倒くささはもちろんけれどほとんど多くはアガー(寒天みたいなものらしい)みたいに透きとおったそしてこれからの世界を知ろうともしない生まれたての子豚の駆け回る姿みたいにキラキラしたいたずら欲で自らのココロヲファインにしその容器の中に詰め替え用液体ではなくただの水道水を入れて窓にシュッシュッと吹き掛けて遊んでいた兄弟に憧れる一人っ子の子どもが今さっきまでここにいたみたいに霧がかっていた。

僕はその思い出の形をできるだけ崩さないように窓の隅の方を自分の服の袖で軽く拭いて小雨浴びるアスファルトを覗いてみた。すると子どもの姿はまるで見えなかったけれどマンション用のゴミ捨て場が見え、そこからクラシックギターが狭い虫かごからやっと脱走しひと休憩しているカブトムシみたいにのんびりとこちらを見ているのを感じた。ちょうど暇の虫かごに閉じ込められていた僕は、雨に濡れるのはもちろん嫌だったからとりあえずは軽く脳内でギターを弾いてみることにした。カブトムシよ翔け。

幼稚園ー小学校ー中学校ー高校ー大学という一般的な道を歩んできた僕が関わりを持ったと言える楽器はまあカスタネット、トライアングル、鍵盤ハーモニカ、リコーダーぐらいで、音楽会で木琴や鉄琴、アコーディオンや指揮者、そんな役割を担ってきた人間はそもそもギターがカブトムシのようにゴミ捨て場で休憩しているという映像を眼脳道路に通そうとはしないし、ゴミ捨て場に置かれたギターなんてものを部屋の窓から見れば真っ先に目の前でとおせんぼする窓を頭突きでぶち破りゴミ捨て場に駆け寄り雨からギターを守り腹に抱え部屋に持ち帰るだろうと思う。いや、もう音の出ない誰のかもさっぱりわからなくなったギターでさえも狭い自分の部屋に大切に置いといてやるそいつはきっと音楽会で目立つというわかりやすい奴ではない。そいつはリコーダーのくせに放課後誰よりも遅くの時間まで一人練習を続け学校の近くに住むその音楽会に特別の愛着を持つ老人の目を50年ぶりに潤わせついには涙の味を思い出させるような奴、そう我らが誇り新見喜太郎である。

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