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水仙⑪

「そういえば、あの宿はどうやって見つけたんですか?」

宮本譲の声は炎の周りに巨大な虹の環を描く日暈のように銀之助の思考の外縁をなぞった。隣に立つ姉は「それ、ほんとうに」と妙に甲高い声を放ち見事な相槌を打った。静寂なホールに響く子どもの声のように浮き出た姉の声は譲を小恥ずかしい思いに駆った。さすが姉も弟の沈黙の訴えに気づいたのか、視線を冬の朝空の向こうにぎこちなく放り投げ、偉大なる権力者である時間とやらにこの問題の解決を委ねた。冷たく澄んだ空は今もこの星のどこかで真っ暗な夜が上映されているという明々白々な事実をまったく信じさせないほどに青の光に満ちていた。銀之助は姉弟のやりとりを親のような気分で見届けた。

「友人に教えてもらったんだ、自称、崇高な理想主義者の」と銀之助はにこやかに答えた。

そう答えた後、実行者は自然派、批評家は浪漫派……と数年前に読んだお気に入りの本にそんなことが書かれてあったのを彼はなんとなく思い出した。そして、せっせと自分に都合いい文章を浪漫に探し求めこれだと見つければ粗く抜き取り自然を粧い蓄えしきりになにかに怯え、漠然とした恐怖に備えているまるで実質なき自己を発見してしまった。自分はいったいこの自分を含めこの世界の何を正確に説明できるだろう。

「自称、崇高な理想主義者……」

宮本はその意を訊ねることもなくただ繰り返した。銀之助は自分の喉から吐き出された声に自分の友を蔑む調子が含まれていたことに少し後ろ暗い感じを覚えた。また、彼に「主義」なるものの適切な解説はできるはずもなく結局は自分自身を軽蔑することとなった。彼は時おり自分の喉の奥に生まれるこの不可解な違和を味わうと、自分の中のなにかが、あるいは眼の奥に宿る誠実さ(であってほしい)が、必死に警告を発しているように感じるのであった。

宮本はまたこんな質問をした。

「その友人さんとは仲がいいんですか?」

「仲がいい……」

銀之助の記憶が思い返す過去の友との映像は客観的に十分に仲がいいように思われた。だが、銀之助は無意識になにか含みを持たせるように努力してこう答えた。

「たぶん、仲がいい」

彼の視線は自然空の彼方へと向かい、その少し後を宮本の姉の眼が人肌触れるように追いかけていた。

「ステキなことですね、仲がいい友人がいるのは」と姉は純真な声で言った。銀之助は安易にそんなことを言う彼女になんとなく失望した。

だが、「理想主義」の友人や宮本の姉が言うようにそれはシンプルでステキなことであった。彼はもちろん一人月を眺める夜に孤独とともにそのことに気づかされるのである。が、どうしても、銀之助はその友人との関係を「たぶん、仲がいい」と完結させてしまうシンプルで平坦な世界に座っておくことができず意図的にこう付け足した。

「人による、必ずしもそうではない、愛が大切、そういう言葉に満足を覚えているのに、本能的には善悪の基準を持っている人間」

と、銀之助はまったく無関係の第三者の人柄を説明するように言った。二人はどのような眼を自分に向けているだろう、彼はなにか蝉の抜け殻になったような空っぽな感じでどこか潔い気分となっていた。

「嫌いなんですか?」と宮本が訊いた。

若者の眼はどこかに記録媒体を隠し持っているかのようで銀之助は彼に強く試されているような感触を得た。もちろんそれは自分の単なる錯覚であると彼は気づいていたが、そう見えてしまったからにはその眼に恐怖を覚えるのが銀之助であった。

「人による、愛が大切っていうフレーズは、問題意識を持つことが大切、議論することが大切、ってやつとそっくりだと思わないかい?」

銀之助は疑問の面を被せた傲慢な主張を心持ち強く言い切った。

自分の声が二人の耳の中に吸い込まれていくのを確認した後、ああ、またか、と銀之助は深く哀しくなった。人による、議論することが大切、そう言って満足し思考をやめる人間、一方、それは思考停止だと非難し、その後出しの正義に満足を覚える人間、両者のあいだに一体何の違いがあろうか。ただ手を握ってくれる温かい連帯者を待ち望んでいるだけのシンプルでステキで孤独な生命よ。

譲は深刻そうに腕を組み銀之助の疑問について考えていた。若者の素直な真剣さは銀之助を束の間の喜びに浸らせた。その時、銀之助は隣の姉がなにか悲しそうな眼で湖の小波を見やっているのに気がついた。岩と波の暗い隙間に眼を向けると一双の赤い手袋が落ちていた。穏やかな波、清涼な風、水藻たちが控えめに揺らいでいる。

「あれ、落とし物かなあ……」と姉は一人ささやくように言った。

銀之助は今、身体の内部のどこかで小さな針が清々しく姿を消し、複雑に絡まった糸がすうっとほどけていくのを感じた。

弟は「向こうから流れてきたのかな」と北の方を指差して言った。淡く潤う大きな湖、水平線の手前、ちょうど一隻の観光船が鷹揚に進んでいる。きらきら混じり合う空の光と水の色彩、水辺に佇む三人の身体を通り抜け街へ沁み込む汽笛の音。

「私、落とし物を見たら心配になるんです。それがその人にとってとても大切なものだったらどうしようって」

銀之助の身体全体、密集しているはずの細胞たちが淋しさを訴えるかのようにずきずき痛む。飽きを知らない時代に孤独が増幅していく。単純な優しさが過剰な正義に置きかわっていく。簡単に放出される真に重いものたち、着実に蓄積していく単に軽いものたち。今日もまた顔だけに笑みを浮かべた人間たちが全身で泣いている。


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