二〇一八〇一自(2)

皆、この社会を生き抜くために常に騙し合いをつづけ、バレないようにバレないようにと気を張りつづけている。嘘をついた官僚は激しく批判されるが、僕からみれば批判している側の人々も常日頃から嘘をついているようにみえる。事の大きさは全然違うが、根本的には、全員同じことをしている。
もちろん僕も嘘をついている人間の一人であり、形式を尊重する世間を世間並みに渡るにはこの能力が必要になる。嘘つきの世界では嘘つきこそが正解誠実となっているのだから。世間とは、一人の人間のなかにある、もしかしたらその人のほとんどの部分を占めているかもしれない、偽善的な部分の寄せ集めなのだから。そこには薄っぺらいものしかない。そしてその薄っぺらいベールでどれだけ自分を隠しどれだけ美しく見せるのかが大事なのだ。
僕は自分自身の人格から出ていない誠実さを何度も目の当たりにし失望する。自分自身の欠点そのものよりもその欠点を隠そうとするその意図に失望する。もし受け入れられても相手がそれを見破れていないこと、いやそれに甘んじていることに失望する。失望し、嘘をつくことに疲れ、嫌われることに疲れ、嘘をつく人を嫌うことに疲れる。もし、全く嘘をつかない人がいれば、その人は正真正銘の誠実な人として生きることができるのか、それとも単なる気狂いとされ社会から捨てられてしまうのだろうか。
結局。皆自分のために生きることを繰り返している。人のためにこれがしたい、自分のためにこれがしたい、そういう自分の思いを行動にしている。かわいそうな人を見て、かわいそうだと思うのは、自分がその立場になったときのことを瞬間的に想像してかわいそうだからかわいそうだと思っている。だから本当に心からその人のことを想っているのではなく、自分のことを思っている。自分こそが一番大事なのだ。この人を救いたい、この人は受け入れたくない。同じことをしているが、ただ他人が理解できる表面の出来具合によって、捨てられたり褒められたりする。人々は、共感、同情、愛の広さだけを見ようとする。その深さは見ようとしない。
ああとにもかくにも、やる気がでない。今までとはなんだったのだろうか、どうしてこんなにも人生は長いのだろうか、三十年だけの人生ならばこんなにも悩む必要はないのではないだろうか。自殺という選択肢は幸運?にもまだ僕の目の前にはあらわれていないが、人はどうして自らを殺すことができてしまうのだろうか。そんなにも幸せに満たされ生きつづけたいのであれば、どうして僕たち全員平等にこの選択肢が与えられているのだろうか。どうして進化は自殺をなくすこと、虐待をなくすこと、いじめをなくすこと、戦争をなくすこと、怒りをなくすこと、嫉妬をなくすこと、孤独をなくすことをしなかったのか。戦争はやりたい人だけでやればいい?ならばいじめもやりたい人だけでやればいい。そんなことが起こり得るか?残念ながらきっと今は起こり得ない。だってそういう本性をもった人間だから生き残ってきたのだから。いや、そういう本性をもった人間が生き残ってきたのだから。

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