見出し画像

ドーナッツ・スプリング

あれは春の陽射しが神様のねごとのように降り注ぐ桜蕾満開の季節。おおきな湖のそばを老人が歩き、青年はベンチより湖の光をみつめる。みずうみ、湖、水雨……。

季節巡りし春の淡さ、青年は眼を澄まし自分の心の奥にひとつのドーナッツを思い描く。ドーナッツは月のような色、かたちは美しい卵形、匂いは太陽のひかりのよう。風が吹けば空の彼方にふっ飛ぶ、蝶々のような軽さも。

岩の上に孤独な大鷭、駐車場隅に狂い咲く白木蓮。昨日の晩ご飯はなんだっけ?今日という日をどうやって過ごしたらいいんだ?我々、季節に頭が重い。けれどきっとだれかが言う、それでいいんだ、それでいいんだ、だってあれが湖の虹彩!

「いったい、いつから覚えられなくなった」老人は心の中で淋しくつぶやく。たいせつな疑問ぐらいは自然のどこかに残しておきたい。花が咲き、虫が起き、星が瞬く……、むずむずする鼻のあたり。ああ、またなにか忘れたような気がする。

すみません、水仙って春にも咲くんでしたっけ?
いつも決まった時間に目の前を通り過ぎるこの老人に話しかけてみれば、きっと互いにいい一日を送るんだろうなぁ、青年は黙ったまま湖を眺め続ける。太陽の下、ゆっくり旋回する鳶の影を水面にみる。


私はまぶたを閉じる。この心地よい陽射しに私の眼が待つものとは?
いつかの夜にみた夢の断片。夢の中に現れた少年は川の向こうから私にこう訊ねてきた、

「一人を暖めるほどの太陽は、雨?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?