海底

「海のような桜のような本棚に、おいらはマトリョーシカをみたんだ」

丸刈り頭の喜太郎は、そうつぶやきながら岩の上を身軽なステップを弟のようにひきつれ歩み進んでいた。

新見喜太郎の担任は竹馬数築。新人以来何年も教育の熱や志というものは、はるかかなた宇宙銀河の果てに置いてきた。

けれど、この小坊主と出会ってからは、いやこの小坊主の心のなまずのようなヌメリに出会ってからはなにかが変わった。昔、本棚の奥に隠した宝物を必然見つけたみたいに。

「喜太郎」

「はい、竹馬くん」

喜太郎は年の離れた担任を名字で呼ぶ。竹馬は最初、そのなれなれしさに一度、いや二度三度丸い頭にとがった雷を落としてやった。

けれど喜太郎、毎回決まって雷の落とし主を不思議そうな顔で見つめる。いったいあなたはなにをしているのでしょう。そう、言語に頼らず、皮膚に直に伝えてくる。笑顔を定めづけられた雪だるまの冷たい心に触れたようである。いや、自分がその雪だるまであったのではないのか。

「その唄はなんだい」

「今朝、ちょんまげ頭が唄っていました」

「ほお、ちょんまげ頭」

「失礼しました、あれは、つーぶろっくというものだったかもしれません」

「どちらでもいいよ」

喜太郎は雨の刃に砥がれた岩にちょこんと座った。まるで見覚えのあるキャベツにとまった一匹の蝶のように。

「ここからの景色は……すごろくだ」

竹馬はなにも言わなかった。いま、いちばんたいせつな教育が行われている。自ら、密で入り乱れた森林から光の匂いを探している。

海は大きな水たまりのように静かに眠っていた。水平線が喜太郎の目を泳ぎ、イワシの大群が海底を出発した。暗い海底は、まだ布団の中で夢をみているようである。

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