『レオン』

今日はそのへんのわんぱく五歳児とはげかかった自己中心フランス人哲学者が日本のマグナルドで互いの母の料理を食べ比べようとしているぐらい散らばして散らばしたいと思う。なにか左右脳をこえて体のバラバラなところに人体のホコリがとんでもなく散らばっている感じがしてそれを想像するだけでも早くまとめてちりとりで綺麗に回収してゴミ箱に捨ててそのゴミ箱も僕が直接ゴミ集積所に持って行ってやろうかとも少し思ったりするのだけれどホコリというのは少しでも確保してやろうと掃除屋が立ち上がると瞬時にまわりで身を潜めていた物質たちが反応して生き生きと動き出すしまず窓の外を覗けば道路はそんなホコリで埋まっていて部屋の中さえもいっぱいいっぱいだからそう簡単に事は進まない。

昨日僕は電車で隣に座ってきた海坊主と喋っていたのだけれど僕はその海坊主のことがまだ理解できないでいるー海坊主自身自分がよくわからない!とか何度も口にしていた。だからそのことについて考えたいと思う。

感情を言語化できないということに尽きるのかもしれないというか言語化できないものを現実世界に引っ張り出してくる方法が普通の人は言語という枠に無理やり詰め込むことしかできないのだからもう疲れたよと思ったりもするしまた一人の人間のことを理解できるはずがないだろと言ってしまえばそれはそれまでなのだけれどそんなことを言って時計の針がチクタクチクタク騒がしい毎日に俺は帰るからなくそやろうとかなんとか言わないから僕はこうして書き出しているしもし書き出さなければそれはいずれ見えないどこかへと消えるのだろうけどそれはそれで期間限定の商品をもう品切れかなどうかなと迷う己の弱さ恥ずかしさをコンクリート石壁の向こうへ思い切りぶん投げ入れああ綺麗になったなったと一仕事やってやったぜと合成満足をふがふが食べ散らかしている真のゴミ屋敷野郎となりいつものマイメニューを頼むような感じがしてなんだかもったいない気がしないでもない。恐らく今回の期間限定メニューはぐちゃぐちゃのめちゃめちゃに散らかっているのが目に見えてはいるのだけれどいいじゃあないかあ受けて立とうとゴミ屋敷に埋もれたリトルな小人が小さい体のくせにたくましく叫んで叫んでいるのだから今回はこの小人に自由を与えたいと思う。というだらだらと長文を書くのはこの辺で終わりにしてその海坊主について考えていきたいと思う。

僕と海坊主は自分の価値観について話す時明らかに違う次元で話していた。たぶん眼球をセットしている場所というか脳がこの世界を捉えはじめるその場所から僕たちは違う登山ルートで頂上に向かおうとしていたような気がする。どちらも別に間違ってはないしそもそも正解なんてないからーというかもうこんなことは言い飽きたのだけれどーそのままこんなくだらないことはスルーしてせっせと山の頂上で写真を撮ってSNSにあげて家に帰って来週のカレンダーを真っ黒に染めて生きていけばいいのだろうけれど残念ながら僕のカメラはどこか高いところから落としてしまってひび割れ凄まじく現在故障中だしカレンダーは今年初めの大掃除で全部捨てたので今回僕に誰かがパスしてやってくれたボールはスルーせずにきっちり足で止めて完全アウェイの観客席の向こう側でも反対側の数少ない味方の応援団の大太鼓の中心にでもボールをぶち込みにドリブルを開始したい。

海坊主は人の話を聞くのが好き、なぜなら新しい価値観考えを知れるからと言った。くせに、僕が喋り出すと最後まで聞こうとしないしそもそも僕が喋り出した瞬間から反論を必死に探しまわっているようにしか感じられなかった。これは自分が理解できない共感できないことは受け入れたくないという証明のように僕は感じられたしそしてここに海坊主が自分のことが自分でもわからないという理由がある気がした。口では綺麗なことを言うのに無意識の行動ではそんな綺麗なことを実践していない。そしてそれに気づいていないしというか気付こうとしていない。ただただ自分の酸素がある場所でしか泳ごうとしないしそれはもちろん人間(海坊主)の本能というか生き抜く術として生まれ持ったものだからしょうがないしというか当然だと思うのだけれど海坊主はそれをも受け入れようとしない。自分の無知を認識したくないがための防衛本能としてとっさにその不快感を合理化言語化する。もし誰かがこれはこうでとか言って話すと海坊主は君の答えが正しいとは限らないと言うし、これこれの本にそう書いてあったよと言っても海坊主はその本が正しい答えとは限らないカラネと言う。テレビ新聞ビルアスファルトを見渡せばそこらじゅう自分の都合良い情報しか探していないし今まさに僕がそれに当てはまるのだから僕には海坊主の気持ちがよくわかるーと言っても上から目線となってしまい海坊主は不快感に包まれるのだけれど。僕だって相手がこれこれはこうで、とか言ってきてもしそれが自分の知識では追いつけないもしくは非共感的文章ならとっさにそんな理論的なことはいいんだよという反論を繰り出してしまうなぜなら第一の直感としては不快君が僕を襲うから。そして僕がこれこれはこうで、とか言ったとするとき相手にそんな理論的なことはいいんだよという反論をされたとするとまたしても不快君が一番にやってくる。なんだかこんなことの繰り返しである。いったい僕たちはなにについて話をしているのだろうか。

合理化合理化合理化合理化エンドレスリピート太郎丸である。たとえ排水溝に流したとしても下水処理場琵琶湖浄水場水道管をまわって合理化太郎はこの世界を循環している。人は直感を合理化して自分の今の立場を守るのだから永遠に分かり合えないのだけれど僕はそのことを踏まえた上で綺麗事を実践できない自らの愚劣さを認識したいという綺麗事を結局は実践できないと気づかされる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?