二〇一八〇一自(27)

愚。なにをしようとしても、自分の利益や他人の頭の中を考え、相手より自分の方が正しいんだと信じ込み見栄を張り合いつづける人間関係のもとで日々を過ごす。本質的な自分として生きることがこんなにもできない世界に生きることは愚である。いや、本質的な自分として生きることができたとしても愚であることに変わりはない。つまり、どんな生き方をしても愚なのだ。愚な部分が出てくるのだ。これは社会で生きている場合には必然のことなのだ。それらは素晴らしくもないし、尊敬にも値しないし、褒めなくてもいいし、立派でもないし、期待しなくてもいい。なにかに囚われあくせく生きる人々。そんな人々がつくりだした不安も貧しさも忙しさも取り除いてはくれない社会。こんなことを考えたところでもなにも変わらない。愚。

こんなことを書きだす自分、こんなことを読んでいる誰か、こんなことを馬鹿にする誰か、こんなことはどうでもいいと言う誰か。君は僕をどんな姿に想像したか。これだけは言える、残念ながらそれは僕ではない、と。残念ながらそれは僕ではない。けれどすぐに自分勝手に頭のなかで相手をつくりあげる。今の僕のように。けれどそんなことはどうでもいい。結局はなにも変わらない。結局はその瞬間に考えたふりをするだけ。結局はこんなことを考えてしまうようになった僕が一番愚である。卑屈で勝手に苦しんでいる人はどこにでもいるが。
僕たちは、進化発展の犠牲者、敗者なのだろうか(ということは僕たちはある意味貴重な絶滅危惧種なのか)。そう思い込んでいるだけだろうか、そういう自分をつくりあげているだけだろうか、それともはるか昔から社会は一切変わっていないのだろうか。もし僕がこんなことを考え書きだすような性格性質ではなく、なんでも乗り越えていこう、苦しみの先には明るい未来がある、すべては自分の努力次第、まあ楽しもう!とかなんの迷いもなく発言できる性格性質だったなら、この社会、世間に対してここまで文句をつらつら書き殴らない。つまり、自分が適応できた社会には好意的になり、適応できなかった社会には否定的になるだけなのだ。僕はもうそんな自分に失望し飽きた。失望し飽きたのでそろそろ受け入れはじめてみたいとも思う。
僕と一番長く過ごすのは僕である。ずっと自分に素直である世界。自然と偶然だけの世界。それは楽であろうか、それともまた新たな苦しみが生じてしまうのだろうか。いや、答えはでていた。苦しむからこんな思考が生まれたのだ。なにごとも繰り返しているだけだ。



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