二〇一八〇一自(6)

インターンが終わり、皆表面上の挨拶だけをしてそそくさ帰っていく。学生たちは、今日のインターンの参加者たちと同じ電車の車両に乗らないように微妙な間隔をあけ駅に向かう。駅のエスカレーターにつくと、一定のリズムで流れつづけるレールの上に足を乗せきっちりと片側に並ぶ。そして工場のベルトコンベアに乗せられた商品のようにどこかへ出荷される。駅のホームは電光掲示板が支配する。正確無比な指示のもと人々は列に並び、自分のスマホの青白い光に吸いこまれていく。
電車の中に足を踏み入れると、新しく入ってきた乗客を確認する人、窓にうつる自分を見つづける人、リュックを抱えながら寝る人、寝ているふりをしている人、いつも通りの光景があらわれる。四人組のおばさんたちが奥に乗っている。なにやら今日あったことをぐちぐち言っていてこのいかにも人間の帰り道という静寂な車内で目立っている。周りの人たちは静かにしてほしいという目線をちらっとやったり空気を読めという空気を漂わせている。だが面と向かってそんなことをはっきりと伝える人はいない。ただ自分たちの世界の中で勝手にいらいらしている。世間がいつもそうであることはいつものことだ。
人々は、今の自分のままではだめだ、成長しよう、一歩前へ踏み出そう、きっと変われる、変わろう、そんなことをずっと言い立て、決して今この瞬間に満足しない。僕たちは決して今を持つことができない。世界、社会、人間は決して今を与えてくれない。いつもいつも何かを羨んでいる。何日も原因不明の心臓の痛みが続き不安になれば、平凡な日常を羨む。ある日突然、左目の上の方と顎の下あたりにしこりのようなものができ、そのことを誰にも言えない日々がつづけば、平凡な日常を羨む。顔の痒みが日に日にひどくなり、毎晩薬に頼っても治る気配はなくこのままひどくなっていくだけなんだと何度も寝る前に思い、いつのまにか自分の顔を見られるのを避けるようになれば、平凡な日常を羨む。だが、いざその平凡な日常がやってくると、日常はまたなにかを求めにいく。僕たちにそれを止める力はない。
井の中の蛙は、世間から馬鹿にされる。大海はどこまでも続く。僕たちは自ら飲んでも飲んでも、飲めば飲むほどのどが渇く海水の中に飛び込み近づくたびに遠ざかる目的地を目指す。死ぬまでその終わりのない海を泳ぎつづけ、最後には自らの正しさを無理やり信じたまま死んでいく。もし、明日皆に平等に死が訪れるとしたら、蛙と僕たち、どちらのほうが不平不満を叫び不幸に死んでいくだろう。井の中の蛙大海を知らず、されど……残念ながらその後の言葉を僕は見つけることはできなかった。
家の最寄り駅に着き、何人かと一緒にさびれたホームに降りる。降りる駅が同じだからお互い近くには住んでいるのだろうが、この人たちのことは見たこともないし話したこともない。空を見上げると、宇宙のかけらが広がっている。小さな綺麗な星たちが浮かんでいる。何億年もの力だ。彼らはほとんど毎晩みることができるにもかかわらず、いつもいつも輝いている。もし桜のように何日かだけの命ならば、彼らは一体どれだけの美しさを僕たちにみせつけるのだろうか。この純粋な光と人間界のはざまでは、翼を躍らせている二つの黒い影が北から南へと悠々と羽ばたいている。

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