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水仙⑥

銀之助はいつの日か生物学者が「人間というのはすぐ“同じ”にくくりたがる」とため息混じりにテレビで話していたのを思い出した。平均、標準、普通、いったい平均的なヒトって誰なんだ、教えてくれ、そんなふうに言っていた。銀之助の頭は、その意を的確に捉えたような気でいたが感覚はどうしてもついていかなかった。銀之助の世界に散らばる自己はなぜか各々がぴたりと一致するには至らず、彼はいつまでもそれを自分の言葉にできなかった。情報が溢れれば溢れるほど彼はその暗い海に溺れゆくのであった。けれどその静寂な海底に沈みゆくあいだ、銀之助はどこか心地よさをも感じていた。微風吹く夜、一人寝床で瞼の裏に浮かぶのは、ただそこにあるだけの世界を単に自分都合で拡大縮小し互いにくくりあうことに徹する狂奔的な人間の姿であった。そして無意識に専門家、学者という権威にすり寄る思考過程が自らに存在するのを直観的に認識した時彼は妙に悲しくなった。それから、銀之助の耳には多くの知的文章が単なる言葉遊びにしか聞こえなくなった。

「同じようなもの?」と銀之助は宮本を少し試す気分で訊いた。

宮本は左眼にうっすらかかった前髪を耳にかけて、「ええ。つまり、僕は二人のことを何も知らないということです」と言った。四つの眼は鋭くも柔らかにそれぞれの相手に対応していた。

「その論理でいけば、みんな同じようなものだね。どこかの大統領も、年に一回顔を合わす家族も、あるいは仲のいい友人も」

「そして、宇宙も、細胞も」と言った若者の二つの瞳はロビーの照明の加減で湖の光に煌めく魚の鱗のように見えた。中央の一瞬の輝きと目尻の皺の薄暗い影が美しい一体をなしていた。そこに、銀之助は深い生命的な涙の残像を見た気がした。

「類推好きな人間はあるがままの世界に何らかの法則をつけたがる。けれど、もしかしたらそれこそが人間が自分の頭を使えてる証拠なのかもしれない」と彼は意図的に優しく微笑んで話を切り上げた。

「明日は何かご予定が?」

「何も決めていないよ。未来のことを考えるのは苦手なんだ。とりあえず湖まで歩いてみようと思う」と銀之助は窓の外に目を向けて言った。夜空に翔る離れの橙の光になんだか嬉しそうに吸い込まれゆく小雨の姿が、その時の銀之助の眼にはやけに美的に映った。奥には宇宙と同化するが如く平静な眠りにつく湖があった。若者は黙ったまま小さく頷いた。

部屋に戻った銀之助は上着を脱ぎ、隅でまるまっていた布団を広げてその上に寝転んだ。潔癖のきらいがある彼だったが、その夜、瞼を閉ざすとたちまち二つの眼の深奥で記憶の整理がランダムに始まるのを感じた。秩序立った深呼吸を何度か繰り返すうち銀之助は不思議で心地よい暗闇に引きずり込まれていった。


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