二〇一八〇一自(7)

平たんな道を五分ほど歩き、二階の窓から橙色の照明の明るさを微かに漏らす我が家を視界にとらえる。開けるたびに古い懐かしい音を鳴らす門を開ける。その音は歴史を越えようとする線みたいになってまわりの空気を振動させる。放たれた線は家の中まで響き、誰よりもはやく家族の一員の帰宅を伝える。何も考えずに洗面所に向かい手を洗いながら、鏡にうつる自分の顔を見た。鏡と自分の距離は互いの世界をきっちり尊重するかのように常に一定であった。鏡の中の自分は、こちらの自分から目を離さない。互いに自分はこんな顔だっただろうか、他者から見える僕は一体どちらなんだろうか、そう思っていた。ふと視界に入ったまだ錆の見えない銀色の蛇口をじっと見つめると、いつもよりどこか歪んでいるように見えた。これは一体どちらの世界が歪んでいるのだろうか、そう思った。
段差の低い階段を登り、自分の部屋へと向かう。まだ新品同様の就活用の鞄を床に置き、無地で模様のない灰色のスウェットに着替える。僕は白にも黒にもなれないただの灰色になった。その時、死ぬまでこの一連の動作をあと何回するのだろうか、あと何回すればいいのか、今まで何回してきたのだろうか、そんな問いが僕の頭のなかにガラスの破片みたいになって飛び散った。いったいどうしてそんなにも傷つけてくるのだろう。なんとなく計算してみたが、その数が少ないのか多いのか、僕にはまったくわからなかった。でもこんなどうでもいいことに基準なんて誰もつくっていないのだから別にいいんだとも思った。だからこの問題に関しては白と黒も、表と裏も、ない。
僕は階段を下に降りて一階に向かい、いつもの自分の席に座りご飯を食べる。テーブルの上に敷かれた黄色いランチョンマットの中心にはトンカツが居座っていた。トンカツは特に僕の好物というわけではないが、好きな部類には入る。食べている途中、食卓にはカキフライが運ばれてきた。この瞬間、トンカツは魅力を失った。僕はトンカツよりカキフライが好きだった。ただそれだけで、トンカツは価値を失った。そしていつもどおり心がだんだん貧しくなっているのを反対側から不気味な目で覗く自分の姿を感じた。
こんなことは、これから幾度となく起こりつづけるのだろう。事あるごとに生まれる心の貧しさを埋めるために、もっとより違う何か、もっといいもの、もっと便利なもの、もっと娯楽的なものを欲しがり、そしてそれをつくり出そうと欲する。成長発展を欲するにつれて心が貧しくなり、心が貧しくなるにつれて成長発展を欲する。幸福感を感じるのはほんの一瞬だが、その一瞬のために数え切れないほどの身体精神を犠牲にする。果てしない欲望は自由を奪い支配し殺していく。人はそんなことは無視して見えないものとして生きる。でも誰しもこのことに気づいている。だが、醜いものを見たくはない人は決して見つづけようとはしない。たぶん僕はずっとこの目のまま死んでしまうのだろう。わかっていても自ら目を取りかえようともしない。このままでいることが自分にとって一番安全だから。
ある本には、植物だって化学物質を使いこなして土の中にいる微生物たちを自分の生存のために利用していると書いてあった。つまり、人間だけが他者を殺したり利用したりしているわけではないのだ。僕たちの頭は、僕たちにとって見える行為、理解できる行為しか処理できない。そんな世界以外でも、生きるために、あらゆるところでなにかしら見たくないことが起こりつづけている。でもまあ、見えないものは、見なくていいものは、遠くで起こっていることは、結局は、関係ない……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?