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水仙⑩

銀之助が宮本の顔に眼をやると彼は妙にぎこちなく「こちらは、姉です。僕より小さいですけど」と少し照れながら教えてくれた。銀之助はふと自分の心が軽くなるのを感じた。冬晴れの風が自然の微笑の如く吹き渡り、遥か遠い昔から自分へと継承された何十兆もの細胞が鼻歌を口ずさみ湖の青に結びついていく。

相手が気になっているであろう要素を意図的に隠すということ、銀之助は決して世間に表出しないこの行為が苦手であった。行為主体が自分もしくは他人であろうと人間が隠し持つ意地悪の気配が繁栄する時空間には、不可視で高密度で卑しい微粒子が漂っているように感じられる。彼はそれを認識するたび極めて不愉快な気分となった。もちろんそれは自己の無意識が相手の性質を見極めたうえにとられる態度で、あらゆるヒトの内部に嫌というほど蠢くある種の人間的媚びであるということを彼は了解していた。そしてその人間の一員である彼はこの問題の是非について何度も考えた。が、自己の性質についてはこの繰り返しに尽きるのであった、自覚と受容。

相手が質問すれば答え、質問してこなければ答えない。単にこのマニュアルを丁寧にこなせばだれも悪くは(見え)ない。が、銀之助はそれが気に入らなかった。簡単であるがゆえに見過ごされる、まさにその点が気に食わないのだ。銀之助にとってそれは表面的な問題ではなく、その人の人柄の根本を現す問題であるように思えて仕方がなかった。しかし、彼はただ理解者(無自覚の共有者?)に出会えればよかったので、この問題は彼の頭を永久的に煩わすものとはならず、むしろ彼は肯定的に捉えていた。変え難い自己の本能、それは適切に認識さえすればオリジナルな直観的基準になる。そして世界に存在するちっぽけな自分に正当な理由をあてがうことができる。

そして今、目の前に立つ少し年下の男はこの問題の一つの解に適合するであろう。自分の無意識の深奥が昨夜出会ったばかりの若者の稟性とどこかで共鳴する。偶然巡り会うヒト同士が詩的な居心地のよさを不思議に覚え合う一つの要因を銀之助は本能的に知覚した。


宮本の姉。銀之助の眼には彼女が背の低さのためか妹のように映っていた。姉と言われてみれば姉相応の孤高の瞳、あるいは虚飾を捨てきれない弱さが醸し出されているのが発見されるように思えた。が、彼にはこのどちらが第一の直観なのか、その後の単なる後付けにすぎないのか判断がつかなかった。

姉は真紅のマフラーを少し下にずらし声を発した。

「聞いてますよ。昨日夜遅く、雨に濡れながら譲の宿に来た……って」

彼女の声はまるで喉の手前から発せられているかのようで、すとんと銀之助の手前に落っこちていた。風が吹けば、知らぬ間に遠くの海に運ばれていくような声、知らぬ間に人々の肌に染み込んでいる弱い雨の音。銀之助は何度も一人の世界で消え去ったであろうこの声を自分の手でひとつひとつ掬い上げたい気分となった。彼女の語りは銀之助の内耳を繊細に振動させ鋭い電気信号が銀之助の脳に到達した。海馬は昨日の雨の香りを強く喚起したが、銀之助の意識の中には瞬間的残光の気配が弱く漂っているのみである。ユズル……、銀之助は自分の頭の隅から身体の隅へと不思議に反響してゆく音を聴いている、青く澄み切る冬の朝、淡く光り潤い煌く湖に漂う一匹の水鳥の気分で。


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