二〇一八〇一自(28)

自分がどうすれば得をするか、何が役に立つのか、他人はどう思っているのかについて頭を働かせつづけることを強要してくるこの嘘が大前提とされている世間の中で生きつづけることは素敵なことだろうか。大事なことだろうか。偉いことだろうか。その世界から別の世界へ行く人々を、この世界の人々が必死に引き止めることは、勝手に上から目線になっている単なる自己満足なのではないのか。もし、本心からこの世界から離れたいと訴えている人がいても彼らはその心からの声を聞こうとしないだろう。その後のことは根拠のない希望で埋め、ただ今自分の世界に止めることに満足を感じるのだから。

もう死にたいという自分の欲求を満たす人、心配したくない迷惑をかけてほしくない他人が死ぬことを止めれない自分にはなりたくない、そんな自分の欲求を満たす人。死ぬのを思いとどまれ、まだ何かいいことがあるはず、死んでしまったのか、かわいそう、なんでそんなことをしたのか、そう思うのは全て本来の自分とは全く関係のない他人、しかもその人の頭の中である。どうして自ら死を選んでいる人々をまとめて批判することができるだろう。生きつづけることただそれだけに価値をおくことはできない。最近の僕は答えのない問題にぶつかると、自己決定という漢字四文字を綺麗にくっきりと頭のなかに思い浮かべてしまう。いやその前からそこにいる。そもそも人生は長すぎる。ただ、死ぬのは恐ろしい。けれどもし死ぬことが全く恐ろしくもなく苦痛を伴うものではないとしたら。


……僕はうだうだと生を批判することで死を受け入れやすいものにしようとしている。死に対して見栄を張り、いつ死んでも仕方がないと言う。そうして死から恐怖をなくそうとしている。そうして自分から離れない不安を必死に取り除こうとしている。そうして自分を守ろうとしている。ではどうしてわざわざそんなことをしているのか?結局、僕自身はこう言っているのだ。
「そんなの決まっている。生きるためだ。生きたいがためだ。死にたくないがためだ」








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