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水仙①

地元の山間部に雪が降ったとテレビが言っていた。

十二月の初め、銀之助が濃密な光に装飾された街を歩いていると小さな人だかりが目に入った。わずかな好奇心で近寄ると一人の若い青年が真新しいアコースティックギターを抱えていた。まわりに並んだ光り輝く観衆の眼は餌を静かに待つ動物の眼のようであった。

銀之助の好奇心の芽は地を這う黒い土にすでに枯れ落ち、足は自然、群衆から離れていた。すぐに背後から希望に満ちた明るい声が湧き起こった。若者の人懐っこい歌声と観衆の生ぬるい手拍子との間に、銀之助はなにか得体の知れないキリのなさみたいなものを感じた。そして、なんとなく若い青年の心の内を想像した。

工事を知らせる小粒の電球が滅茶苦茶に鈍く光る歩道橋の狭い階段を上り切り、下に四車線の道路を眺める。帰路につく車のヘッドライトが熱狂的に光り輝き、綺麗に葉を落とし裸となった街路樹が人工的な白い光の中で冷たい風に細い枝を揺らしている。銀之助は眠らぬ自意識が互いに互いを削り合う街を森の奥のねぐらに帰る鳥のように通り抜ける。

彼は暗闇も相俟り草陰と見分けのつかないバス停のベンチに腰を下ろした。バスが来るまでの間、彼の視界を横切ったのは一匹の太った黒猫と風に舞う雪虫だけだった。車は一台も見なかった。やがてバスが来て彼は一番後ろの席に座った。

銀之助の目的地はある友人から教えられた湖沿いの宿であった。席の窓からは月も星も見えなかった。けれど夜空の一部分には確かに月の白い光が暗示されていた。一時間ほど暗い夜道を走り抜けると湖らしきものが窓の外に浮かび上がってきた。湖岸沿いに陳列された樹々の葉を見るかぎり風は吹いているらしかったが、岸に波はなく青黒い水面はひたすら静かな夜空を映していた。

バスを降りると湖の方角から強い風が吹き渡っていた。蕭々と降る冬の細い雨が銀之助の鼻の頭を濡らした。彼は顎を上着の襟に深く埋めて湖のそばの道を歩き続けた。時折、鵞鳥の奇天烈な叫び声が遠くから聞こえた。湖の対岸には永遠と濁った光が燦ざめいていた。

雨に湿った古いベンチ以外何もない大きな広場に出た。時雨を落とす深い藍色空は涯しなく澄み切り空自体が星のようだった。点滅信号が淋しく光る大通りを渡ると生温い風が銀之助の頬を撫でた。街でも湖でもない、かすかな宿の匂いがした。


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