二〇一八〇一自(11)

朝ごはんを食べ終わり、パンのかすが絵画のインクみたいに散らばった皿を台所の流し台に置く。洗うときに汚れが落ちやすいように、蛇口をひねり皿を何回か水浴びさせ、そのまま冷たい水に浸しておく。今日は気温がいつもより低いので、水につけられた皿たちは少し控えめに寒さを訴える。夕方ごろには暗闇に包まれた食器棚に帰れるはずだ。けれど、このまま水中に潜っていたいと言っているような気も少しだけする。
外一面に太陽の光が広がっている。家のなかのソファに座っていても、今上空で輝いているであろう太陽の姿が頭のなかに想像される。テレビの横には僕より少し高い背のガラス戸があり、障子が開けられているときはそこに開放的な庭がうつしだされる。ガラス越しでも、身体が緑を感じている。気持ちがどこかに吸い取られていくように落ち着きはじめる。これは人間の本能だろう。歴史をみればほとんどの時をこの冷たさと温かさがぶつかりあう世界で過ごしてきた。青空、太陽、月、星、海、川……。これらは、今の僕たちにさえも直観的に、快い、美しいという感情を生じさせる。これはきっと僕たちの中にいる祖先たちが、その時代時代に輝いていた青空や太陽を思い出しているのだろう。懐かしいなあ、気持ちいいなあと一緒になって喜びの声をあげている。じゃあ現代人が田舎派と都会派に分かれるのはなぜか、という疑問は、今は太陽の光でシャットアウトである。
ここ最近庭を捉える僕の目には、地面から伸びる一つの芽が映っていた。その芽の先には明るい紫色をした花がついていた。僕は花の名前をよく知らないが、ただその花は他とは違う鮮やかな色をどこか慎ましく咲かせていた。僕はこの緑で覆われた地で一人だけで佇む彼女になにか不思議な感覚を抱いていた。だが、今日何気なくいつもの場所に目をやると、そこにはありふれた色しか映らないどこか寂しいだけの景色となっていた。けれど、太陽に輝かしく照らされている大地を見ると、またすぐにあの僕の目を惹きつける何かがそこに現れるのだろうと思うのであった。僕はこんなことを思う自分自身になにか懐かしさのような期待のような、そして怖さのようなものを感じた。
僕は直接陽の光を浴びたくなり、ベランダに出て、風と鳥の声が生きている家の外を見渡した。終わりのない青色の天井に顔を向けると、巨大な白い雲と小さな薄い雲がまるで家族のようにのんびりと風を浴びながら漂っている。その後ろからはまた似たような形をした雲がやってくる。雲とはなんだろうか。人々が雲と呼ばなければ、目で捉えなければ、雲以外の存在が無ければ、一体なにものなんだろうか。雲という言葉が生まれる前から、雲は存在している。全てが消え去ったときはじめて、雲は雲自体のまま生きることができるのだろうか。日常の外にある世界に入り込んでいる間、僕は自分の存在を忘れていた。どこにもいなかった。そしていつものように、家のそばを走る電車の重い重い動力がそんな雲の世界を壊していた。

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