やっぱり昼もいいな
「人生には何枚のハンカチが必要だと思う?」
人々が家路を急ぐなか、綺麗なスーツを着て道路に寝転んでいる青年が言った。
「最近の若者はそんなにハンカチ持ってないんじゃないですか?」と僕は言った。
「んー、それがきみの答え?」
「ええ」
その青年はじっと僕の方を見て、目を閉じた。
「寝るんですか?」
「ああ寝る。話を終えたらね」
「話?」
青年は目を開けて話した。
「僕はね、だいたいはいつもこのへんで寝転んでいる。スーツを着ながら道に寝転んでいると、通り過ぎる人はよくこう言う。あんたは暗い世界だな、って。けれど決してそんなことはない。天気が良ければ星も月も見えるし、少し遠くに行けば明るい街灯もある。このへんは治安がよくて、殴られたり蹴られたりとか、そういう目に見えてひどい暴力にもまだ一度も出くわしていない。ここまではきみにもまあわかるだろう?」
「はい、なんとなく」
「けれど、なんだかただ寝転ぶことは苦痛なことが多い。というより虚しくなることが多い」
青年は一度丁寧に咳払いをした。
「それは、映画館で繰り返し同じ映像をみさせられるような感じだ。およそ10秒の映像が流れ、それが終わるとまた同じ10秒の映像が流れる。それが2時間続く。繰り返して繰り返して繰り返す。同じ道を通り同じ道を通り同じ道を通る。寝転んでいるのに、そういう虚しさが僕を襲う」
「通行人が同じように見えるということですか?」
「いいや。通行人はそれぞれ着ている服も履いている靴も全然違う。それぞれに合った、それぞれが好きそうな物を適切に選んで適切に配置している。だけれど」
「だけれど?」
「なんだか目線が同じなんだ」
「目線?」
「ああ。寝転んでいる僕に話しかけてくる人はいる。同じ目線のようなフリをして話してくれたり、あからさまに目線を合わせずに話してくれたり、さまざまな人がいる。まれに、同じ目線の人もいる」
「まれに」
「昨日のことなんだけどね」と青年は言った。
「いつものように寝転んでいると、リスみたいなネコとネコみたいなリスが僕のところにやってきたんだ。そして楽しそうに僕のまわりをうろついた後、二人ともどこかへと消えてしまった。僕はいつものように、ああ、あの虚しさがやってきてしまうんだなと思った。すべては広い無趣味な空に消えていくんだなと思った。でも彼女たちは消えなかった。それは、暗い世界の救いとされる星や月みたいなものじゃなかった。僕はそういうのはほんとうに好きなんだけれど、なぜか今回は別であった。彼女たちはただの明るい海の上に広がる、ただの青空のようなものだったんだ。言いたいこと、わかる?」
「ただの青空」
「ああ、ただの青空」
「僕もそこに寝転がっていいですか?」
「歓迎する」
僕は青年の横に寝転んで道の冷たさを身体で感じた。夜空には星がいっぱい光っていたけれど、青空は見えなかった。
僕はポケットからハンカチを取り出し、青年に渡した。
「お、ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
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