二〇一八〇一自(5)

インターンのメインイベントはグループディスカッションだ。このために、大学や違う場所で練習をしてきている人もいる。そうして、"美しい努力"をして、必死に社会や世間が求めている人間というものになろうとする。早速、練習通りに誰かが仕切り出し、誰かがメモを取る。仕切り役はたいていグループには一人ぐらいいてくれる。ありがたいことだ。サンキュー、ペッパー君。グループディスカッションと言ってもそんな激しい議論にはならない。この安定を崩壊させるメリットなんてどこにもないのだ。皆の口から出てくる言葉は、この社会で生き残るために、生まれた瞬間に持っていた瑞々しい生気をこれでもかと削り取られ、息をしていない。僕は、てか就活より終活をしよう!とか言って議論をぶち壊してやりたかったが、もちろん言えるはずはなかった。
思ってもいない綺麗事をだらだらと言って発言したことに満足感を得たり、大きな相槌をしながら議論上手の自分に酔いしれたり、んー…と言いながら必死に考えているふりをしたり、口には出せないが心の中で喋ったり。そして皆、自分は柔軟性と協調性を持っていますとアピールするために、あらかじめ準備していたかのように議論の中盤で、自分の意見(これも自分の意見かは疑わしいが)を曲げ、当たり障りのない結論へと向かう。皆心の中では、自分は他のやつより上なんだ、と思いながら。
謎の時間。皆が本性に嘘をつき架空の自分を作り上げ意見を言い合い、時に無理やり口角を上げ目尻を下げ、気を使い合う時間。時々周りからこちらをみている社員の表情を伺う時間。これが仕事か、これが今まで見てきた大人の姿か、これが社会で生きるということなのか。なんだか人として生きている感じがしない。人、その定義が問題になるが、そんなことに正解は存在しない。だからその瞬間に自分が思いついた、気づかぬうちに体の奥底から上がってきた言葉、それが答えである。それこそが本性である。僕は、少なくともこの繕われた時間において、彼らのことを人だとは思えなかったし、そこにいる自分も人だとは思えなかった。
以前のある面接を思い出す。僕の唇が動いた一秒後にはどこか後悔している自分が生まれる。どうしてこんな綺麗事を言わなければならないのか、自分はこんな人ではないという違和感。だがそれを口に出すことはできないという苦しみ。それを深く考えさせてもくれない常にまとわりつき常になにかを強要してくる時間。本音を言わないことは当然だと皆々がささやく暗黙の了解。上から僕を圧迫し押さえ殺しにかかるこの暗闇。目の前で評価しているつもりになっている面接官はこの違和感に気づいているだろうか、いや気づいているはずはない。よくいる就活生としか思っていない。僕も相手のことをよくいる面接官としか思っていない。ああ苦しい、なんなんだろうかこのずれは。相手の頭の中と自分のずれ、自分自身の中に芽生えているずれ、外からも内からも見えないこのずれ、早く消し去ってくれ。ああ、誰が消し去ってくれる?
やりたいことは何?なりたいものは何?と聞かれすぐに思いつかないことがある。本当は何もやりたくないからかもしれない、何にもなりたくないのだ。このままでありたいのだ。なぜやりたいこと、なりたいものを必死に考えているのだろうか。なぜその人は笑みを浮かべながら僕にそんなことを聞き出そうとするのだろうか。やりたいこと、なりたいものを他人のタイミングで考えさせられ、与えられた時間内にこれだと無理やり決めつけ、決めることができたことに安心する。拙速につくりあげた自分を信じこむことさえできれば安全なのだろうが、ふと考えてしまう。ほんとうに?と。僕は、誰かから何かの役割、枠組みを与えられるのがこわいのだ。自分の中から生まれたわけではない嘘偽りまみれの変化がこわいのだ。、

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