雪だまるの帰り道

どこかの少年が「くしゃみをしたらどこかで虹が出てるんだよ」って言ってたのを思い出したから窓をあけて空を覗いてみた。そしたら小さな鳶が「電車の音はさ、焦る子どもの足音のように大きくて、諦めた大人の鼓動のように小さいね」とかなんとか言ってた。小さな鳶は朝の柔らかい太陽光線に埋もれてて、水をかけても砂をかけてもなんでか消えない小さい焔みたいに見えた。

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マトリョーシカみたいな体型のサラリーマンが昼休憩か目の前の大通りをせっせと歩いていた。かつての僕だったらマトリョーシカの中に隠れるほんとうの姿ってやつが少し気になったりして泣き叫んでたかもしれないけれど、なんだか今は気にならない、特には。これは幸せなことなのかそうじゃないのかって問題は次の夏休みの自由研究のテーマにでもしたい。もちろんマトリョーシカにはおいしい昼ごはんを食べてもらって午後の仕事も頑張って夜はあったかい家に帰ってもらいたいけど、別にそれも本音じゃない。本音の美しさも偽りの美しさも結局は綺麗だし汚いんだろう。そういえば3日ぐらい前に夢で味わった楽しい団欒が妙に心に残ってるリアルに。

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まんまるな目をした老人が誰もいなくなった公園の真ん中で、ブルーシートを敷いて空を見上げては地面をきょろきょろ見渡したり、そんなことを繰り返していた。街から流れてくる風は騒がしくて妙な沈黙と強い輝きがぐちゃぐちゃに混ざりあっていた。街では桜海紅葉がとんでもなく完璧に描かれた絵をみんながもてはやしていた。一方、老人は少しずつ力を失っていた。機械的な仮面を被るも力を失い、天真爛漫な一つの生命を燃やすも力を失う。そして無意味な装飾で塗り固められた天国に送られる。だったらこの公園に咲くたんぽぽでも探しまわってさ、くしゃみでもしていたいんじゃないかな。


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