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夏のひつじ雲

「僕は夜の雨の音がいちばん好きなんだ、それも夏の夜に聴く」

五年前の夏の夜、気持ちよさそうに酔った猫田は、芝生の上に寝ころびながらそう言って二度と僕の前には現れなかった。

こういうことを書くとたいていの人は、なにかその理由をウキウキ気分で詮索しようとする。だけど、僕としては、たとえ猫田が特急列車に思いっきり轢かれて死んでいようが、どこか遠くの土地に立派なマイホームを建てて元気にやっていようが、申し訳ないけど知ったこっちゃない。
だって僕には、“猫田は現れない”という素晴らしくシンプルな結果のみがまとわりついてくるだけだから、深い影法師のように。そしてそのせいで僕は、こうやってたったひとり夜の芝生の上にて煙草を吸う羽目にあいなっている。

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いまだによさのわからない赤のマールボロ(猫田のおすすめ品)を一本吸い終わって、僕は人間に馬鹿にされることに飽き飽きした一匹の鳩のように深いため息をついて顔を夜空に向ける。広い空にはあいもかわらず綺麗な星月が、神秘的な宇宙の仲介役のような顔をして圧倒的な光を放っている。

嵐のような夕立ちが八月の冴えた星明かりに姿を変えたある夜、猫田は僕の隣でこう言った。

「星が桜みたいに、ある季節にしか光を放たなければ、いったいどれだけもて囃されるんだろうな」

その夜に吹いた風は宇宙の寝息のようでとても心地よかった。

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夜の芝生に時おり長く吹く夏の夜風に僕はよく瞼を閉じている。
なぜなら、夏の夜風というのは、いつも350mlの缶ビール一本で効率よく酔ってどこまでも不可思議(でそのくせ現実的)なこの世界への文句を何時間でも語り続けるあの猫田の楽しげな声を、あるいはどこか遠くの森に光の如く降り注ぐ夏の雨の音を、暗闇でひとり寝っころがる僕の耳元に運んできてくれるような気がするから。

突然、信頼する人が目の前から姿を消すという事態は、二十年間の孤独に慣れた僕にとってさえもなかなかにショッキングな出来事であった。
そもそも世間の表舞台に立つことが極めて少ない僕に、どうしてそんなドラマみたいな事態が落っこちてくるのか、まったくもって理解できなかった。この五年間で僕は、そんな劇的シーンを僕のちっぽけな人生に脚色した神様の性格の悪さを何度非難したかわからない。

猫田が消失した世界は、僕自身が、とある一人の存在を失っただけでそのショックからなかなか抜け出せないほどに弱い人間であることを初めて認識させた。そして僕は、そんな自分に関する重要な情報を今まで露知らず自分自身の人生を生きてきた(つもりだった)という事実にちょっと驚いた。
今の僕は過去の僕に疑いの目を向けるようになって、なんとなくどうしていいかわからなくなった。だって今の僕は、この身体を、この頭を、そしてこの言葉たちを、はっきりと僕のものだと言い切ることができるだろうか?
だけど、猫田がよく言っていたように、ほんとうの自分なんてものはその事態に陥ってはじめて見つかってゆくものなんだろう。落ち込むたびに夜空を見上げ、星の美しさを知ってゆくように。

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猫田が去ってから、僕の脳味噌はよくあるジェンガのように真ん中がすっぽりと抜け落ちてしまった。この感覚はなにかが欠落してしまったというより、なんというか、ほんとうの形に近づいていっているような感じがする。だからきっと、悲しいことじゃない。
一日に吸う煙草の量が減って(夜の芝生の上で吸う赤のマールボロ一本のみだ)、別の友人と街へ出かけてお酒を飲みに行くことがなくなって、だれかに自分から連絡をとることがなくなった。読みたい本が、行きたい場所が、将来の漠然とした計画が、とにかくあらゆるものが、リセットされた。物事が進むと、あるいは進みそうになると、僕の意識はいつもこう言う。

「それをして、結局なんの意味がある?」


こういうのはたぶん、現実世界を生きる人間としてはとてもやっかいな性質であると思う。でもはっきり言うと、猫田が消失してから僕に訪れた一番やっかいなことは、猫田と一緒にこの世界への文句を語る時間が、つまり、ちっぽけな人間がなんの意味もないことを語り合う時間がなくなってしまったことなんだ、ほんとうのところ。


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