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水仙⑤

「なんだかわくわくするね」と銀之助は言った。

彼はなんとなく窓の外の未知なる光に自分の大脳皮質の一部が緩く刺激されるのを感じた。そしてそのある種弛緩した空間に思考停止を哲学に置き換える自らの姿をはっきり見てとった。

受付の男は黙っていたがその顔は軽く微笑んでいるようだった。ひとつの光をただ見つめる二人の間に概念の隙間を流れるが如く冷たくしんとした時間がしばらく訪れた。白い灯りを振りまくロビーの光が自ら望んで離れの退廃美の光に統べられていった。光はいつのまにか鼠色の絨毯に同化した。

「おじいさんはいつからあの離れに住んでいるんだい」

銀之助はそう言って上着のポケットに手を突っ込み中身の少ない煙草の箱を触った。小雨を浴びた上着はすでに乾いていたが指の先はまだ冷えていた。若者は首を縦にも横にも振ることなく「知りませんよ」とだけ答えた。彼の眼から放たれる低体温な視線は一斉教育の窓際で山に吹く風と雲を眺める子のそれに似ていた。

銀之助は若者の胸に名札があるのに初めて気がついた。宮本、と彫られていた。ふと、彼は自分にこの宿を紹介してくれた友人のことを思い出した。その友人は、たびたびエーリッヒ・フロムを持ち出し、愛することの重要性を説き、自分は人の話を聞くことが大好きなんだと自らを評価する類いの人物だった。銀之助はそれを聞くたびになにか判然としない響きが耳の内部に沈澱していくのを自覚していた。月の照ったある日、彼はその不快感を言語化した。「愛することができるのは、自らが愛することができる人に限られている」。


「ご案内しましょうか?」と宮本は言った。

「今はやめておこう。なんだかこんな夜に人の住処を荒らすのは避けたほうがいい気がするから」と銀之助は答えた。だがほんとうは、これからこの宮本という名前を持った若い男と一人の老人に会いに行く……その繰り返される虚しい巨大な精神運動の予感に怯えていただけであった。

「そうですか。でも、それもいいご判断だと思います」

宮本は続けてこう言った。

「あの人は僕がここで働くずっと前からあそこに住んでいるんです。だから僕にとってあのおじいさんは同じようなものなんです、あなたと」

「同じようなものなんです、あなたと……」銀之助は無意識にそう呟いていた。


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