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水仙⑧

宿の前の細い道を抜け大通りに出る。冬の軽い風に道の枯れ葉が哀しくもどこか健気にカラカラとその骸の音を淡い空の奥へと響かせる。無数の細胞の生の名残りが巨大な炎の星へ、永劫的なエネルギーが浮薄な風に乗って、千態万状なる容器を乗り継ぎ、循環してゆく。銀、黒、青、白、赤、黒、ギラギラした目つきの自動車と気怠そうな眼をした操縦者が大通りに一定のリズムの動静を刻んで流れてゆく。その横を銀之助はきわめて緩慢な速度で歩き進む。

次から次に自分を抜き去る機械の振動は進化のレールを全速前進する「高等生物」の知的産物である。が、銀之助に言わせればそれは忙殺に生きる「高等生物」の知的怠慢がゆえの産物であった。ただひたすらに時間を効率化しせっかく生まれた時間をただひたすらに浪費する。銀之助は度々、自分自身が、街という大きな巨人の体内でたった独りいつまでも消化され得ない小さな異物であって、いつか忘れた頃、なんの前触れもなく外に吐き出されてしまうのではないかと潜在的に予感させられるのであった。あるいは、他の分子と同じようにさっと消化されて見事に「幸福」な巨人の栄養分となる。

それらはたしかに得体の知れない不安であった!が、彼は自分の五臓六腑をじわりじわり締め付ける不明瞭な不安をじっと堪えじっと見つめていれば、不敵な笑みを浮かべる小さな安らぎのようなものが自分の体内のどこか端々に確然と存在しているのを強く感じるのであった。どのルートを辿ろうが、あらゆる終着点は自己の意志の結末、運命である……、そう銀之助には考えられた。運命、今、この瞬間に鼓動を打つ全生物の力に驚嘆する。同時に、残酷で戦慄的な生のダイナミズムをこの半強制的に自らに張り巡らされた血管全体で受容する。


派手なヘルメットをかぶった少年が調子よく自転車を漕ぎ銀之助を追い越す。反対側の歩道でベビーカーの乳児が泣き喚いている。信号が赤になり銀之助は歩みを止める。ヘルメットの少年も地面に足をつけ冬の太陽に丸い顔を向けている。咆哮する乳児に小柄な母親が少ししゃがんで目を合わせ無償の愛を注ぐ。太陽の下には円を描く一匹の鳶の神々しさ。皆みな、この星の共同体の一員として今日を生きている。子も母も鳶も巨人も太陽も、そして自分も、堂々たる自己の家畜である。

信号を渡ると北の方角に淡い白と青の光を放つ湖がはっきり見えた。銀之助は街のすぐそばでじっと静かにしている大きな湖を不思議に思った。たった今水位を上げこの街を飲み込んでもおかしくはない。街に住む人々はそんなことは考えもせず簡潔に自然を理想化し心の深くで接触しているつもりである。車は道に従い湖の手前で磁石のようにどんどん東の方へ吸い込まれていく。

真っ直ぐ北の方へ歩いていた銀之助は大きなフウの木の下をくぐり広場に出た。ベンチには防寒を徹底して蓑虫みたいになった婆さんが湖を眺めて静かに座っていた。ふいに銀之助は実家の婆さんのことを思い出した。晴れの香りが街と緑に立ち込める朝、白生地の手拭を頭から巻きせっせと庭の手入れをしていた。夏の陽光に干からびたミミズ、夕暮れ時の蝉の合唱、メタリックブルーに光るニホントカゲ、枝の上の鵯のつぶらな瞳、茶褐色に変色した軟式野球ボール、ドアの壊れたかび臭い物置……、銀之助の頭の中には雑然と実家の庭の光景が群がっていた。


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