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水仙⑨

湖岸に伸びる遊歩道は綺麗な砂色に舗装され銀之助のいる広場を東西に突き抜ける。西に七百メートル程進めば小さな湖港が現れ、東に向かえば二キロ程なだらかな曲線がつづきその後湖から海へ流れ出る唯一の川を伝う南北の線となる。人為的に並べられた岩と短く刈られた芝が遊歩道の両端を挟み、東西の背景には冷徹な観察家が人生を懸け描いたような長大な山の連なりが青空を突いている。数多の生命を看取ってきた彼らは大自然の王者の如き態度で街に生えた高層ビルや新築マンションを見下ろしている。冬の眩しい光と水鳥の鋭利な声がコバルト色の湖風に乗って散歩する民の頭の上を越え街の隙間に消えてゆく。銀之助は人の少ない東へ歩みを進める。

何匹もの大鷭が頭を水中に突っ込み湖面に真っ黒な尻を無防備に出している。少しずれた所から顔を出しすいすいとまた潜る地点を探しに行く。岩上にて一心不乱、白い嘴を岩の隙間に突っ込んでいるのもまた大鷭である。銀之助は自分が今までこんなに大鷭という鳥を目撃、意識したことがあったかしらと不思議に思う。時を重ねるごとわれわれが遭遇する日常溢れる情報ひとつひとつの変化は、外部環境の変化、あるいは自己内部の変化、そのどちらに偏りを持つのか銀之助にはよくわからなかった。ただ、よくわからないといっても彼は特に不満を抱くわけではなかった。兎角に幸運な“なにか“がこの無慈悲で生き生きした外部の自然界及び内部の自己世界を生き残ってきたにすぎないのだから。

岩の上を軽快に弾み歩く白鶺鴒。尾の長いシルエットは穏やかな冬の朝陽にはぴったりなように思える。藁色がかった芝生に立つ老人の如き松の木の間を小さな雀が飛び交い銀之助の聴覚を常刺激する。閉鎖的都市のもと、あるいはひらけた水辺のもと、外部環境の変化という単一的要素で雀の声の刺激の色彩が自己の内部で大いに複雑変化することに銀之助は心の中で微笑した。松の木のそばの草地で鳩が眠そうに陽に当たっている。水辺の鳥はみなみなどこか暖気に見える。冬のやわらかな日光があらゆる生物の警戒心を浄化し鳥は直截的な死の飛行を見せずにすんでいる。いや、単に人間が死や孤独を特異なものとして際立たせすぎているだけなのかもしれない、散歩に邁進する彼は呑気にそう考えた。小さな橋を渡ると、砂場で明るい水色の帽子をかぶった幼児たちが背の低い木の柵を蹴っているのが見え、遠くから先生と思しき若い女性がどうして蹴ってんの〜、と笑いながら怒っているのが聞こえた。

砂場の横を通り過ぎると、てっぺんに大きなトンボのオブジェを戴く城のような建物が見えた。前の看板を見ると使われなくなった文化館らしい。掲示板のポスターは別の施設で開かれる仏教美術の展覧会を告知していた。大量発行されたチラシを通してでも神聖さを放とうとする黄金色の仏像、その後ろに聳える用途なき沈黙の城、城の影で現実的な暗緑色を映す実直的な湖面、それら三つの共存になんとなく憐憫の情を誘われた銀之助はしばらく歩みを止めていた。いくつか風の音を聴いた後、彼は自分の胸の深奥に雨滴が如き郷愁の念が滲むのを認めた。

「あ、おはようございます」

妙に明るい声が後ろから聞こえ銀之助は少しどきりとした。振り返ると、宮本とその隣に背の小さな若い女がいた。宮本は昨晩より艶のある面に冬の午前に適切な微笑を飾り、隣の彼女は赤いマフラーを小さな鼻の下まで巻いていた。たっぷり冬の光を浴び深く潤った彼女の瞳はどこかに品を隠し持っているようで同時に愛くるしくその視線の行く先は、あるとき城の頂に止まりそれから一度も飛ぶことのない天涯孤独な生命の憧憬の行く先と同じ、涯なき青い宇宙であった。


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