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水仙⑫

「よければ珈琲でも飲みにいきませんか」

銀之助は譲に誘われて街の珈琲屋に向かった。譲の姉は同級生が開く小さな個展に行かなければならないと言って二人と別れた。

彼女と別れてじき湖で一匹の魚が勢いよく跳ねた。小さな命の揺らぎが一瞬の衝動に変成し地上の銀之助の耳を貫く。彼の眼は本能的に動かされ、思考は正体を突き止めようと熱心に働き回る。が、湖面は同心円状の波紋の痕を残すのみで一匹の生命の気配はとっくに深い湖底へ沈んでいる。
ふと、気づけば銀之助はただぼーっと碧い陽射しに静まり返った大きな水たまりを眺める一人の男である。と同時に、なにか抑圧的なものから解放された一人の男でもある。男は静まった眼で影の内界と光の外界に流れる時の違いを感じ取り、そして茫然とする。

湖から吹く風の声、爽やかに香る光の匂い、不可思議に移ろう時の流れ、君の人生には明確な目標が設定されていない、ただ緩慢に低い山から暗い深海へ流れ落ちてゆくのみ、けれど、君は川の途中、だれかが釣り糸を垂らしてくれるのを待ち望んでいる、だれかが地上の光りに引き上げてくれるのを待ち望んでいる、当てなき哀しき魚のように……。

銀之助は後ろを振り返り着実に離れゆくであろう小さな後ろ姿を探した。

小さな後ろ姿の持ち主、一人の優しい女性はまだ同じ場所にいた。彼女は落ちていた木の枝を右手に握り、ぎこちない動きで湖から何かを引き上げようとしていた。銀之助は彼女の弟の肩を叩き、その光景を見せた。譲は何も言わずににっこりした。二人の眼には白く冴えた冬の光が沁み込んだ。
彼女は濡れてくたくたとなった手袋をできるだけ人目につくよう岩上に置いた。長旅を終えた漂流物は彼女の小さなぽかぽかとした心にお礼を告げているようだった。銀之助の眼裏には心から親に感謝する子の姿のようなものが映った。
二人の視線に気がついた彼女は恥ずかしそうに手を振った。銀之助は利他を自然に実行する姉になにか恥ずかしさを感じつつもそれ以上にその自然さを誇りに思っている譲の微笑を見た。
時折、銀之助の世界に現れる人間の自然、その純粋な宇宙には雨露がきらきらと光を放ちだれかの探しものが美しい星々の輝きと共鳴している。


銀之助は地上の光りを目一杯に浴びる一双の赤い手袋を思い浮かべながら街に入った。


猛烈な回転音、頑強な道路、軽い足音、髪の色彩、剥き出しのブランド、絢爛な看板、可愛らしい衣服を着せられた小型犬……、縦横無尽に広告を垂れ流す街の景色は昨日までの銀之助の記憶を鮮やかに喚起する。先ほどまで湖の光を浴びていた彼は全く以て今の自分の存在が信じられない。
堆積する混沌を秩序正しく合成する完全な街、いや、動物的な香りが至る所にその存在を仄めかす正体不明で不完全な空間。銀之助の視界にはあらゆるものが共通理解なき影なき物体のように映り、その群れに彼の内奥は妙な恐怖を覚えた。耳を澄ませば街の血管中をヒトらしさという鎧を纏った虚しい自意識の塊がどろどろと流れている。目を閉じれば自動化と希薄化の波が人間の深い影を侵食している。

銀之助と譲は珈琲屋に着くまで信号に何度か引っかかった。どれも渡る直前で青が点滅し始めたが、二人とも急いで渡ろうとはせず何度も立ち止まった。信号待ちの時、銀之助は赤色灯火を見つめながらこう言った。

「もし落とし物を見つけることがあっても、自分は心配と同情しかできない。行動には現れない」

歩行者用の信号機の中で直立する人の姿がなんだか鏡のように感じられた。解体工事が終わりがらんとしたショッピングセンター跡地の上空にひこうき雲がうっすらと伸びている。

「僕もですよ」と譲は小さく頷いて答えた。

「どうして君のお姉さんはあれだけ優しいんだろう?なにかと大変だろう」

「姉は、自分は優しくないって言っていました」

「優しい人にかぎってそういうことを言う」

譲は同意も反対もせず妙な間を少し置いてから、静かにこう言った。

「優しくできない人のほうが、案外、大変だったりするんですよ」

銀之助は譲に目をやった。彼の視線は先ほどの自分と同じように精密機械の中で直立するシルエットを見つめていた。銀之助は年下の若者の冷えた深い瞳を眺めながら優しい存在に通底しているものはいったいなんだろうと考える。
真っ先に思い浮かんだのは穏やかな笑顔である。淡く潤う笑顔は目の前の広い草原を駆け抜ける少年少女を見守っている。そして日が暮れる頃、涼しい日陰で寝転んでいる銀之助の隣に不思議な少年少女がやってくる。

少女はこう言う、

「ぜったいに待っていてくれる存在」

少年はこう言う、

「いま気づくことはむずかしい」

銀之助がなにかを訊ねようとすると彼らは姿を消している。薄光の空の下、残響的な沈黙美が彼の肉体と精神、そして想像世界に沁み込んでゆく。


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