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水仙③

銀之助は彼に自分の二つの眼の奥を深く静かに覗かれこの空間に不適切なものを隠し持っていないかを点検されているように感じた。なにかに取り憑かれた人のように一点を見つめる男の瞳の奥は暗青色に澄んでおり、銀之助はついさっきバスの中で読んだ小説に登場した深い湖を想起した。村の真ん中にあった湖はこの国の素晴らしき経済成長の陰で静かにセメントと廃棄物に沈んでいた。

「離れですよ」と男は言った。ロビーに響いた男の声は意外にも朗朗としていて銀之助は驚いた。

「だれか泊まっているのかい?」

「いいえ」

無関心さを纏い核心を見せない若者の話し方に銀之助は親しみのような温かなものを感じる自分を認めた。この類の感情は久しぶりだった。彼と銀之助の間に「時間」は重要な要素となり得なかった。すっと気楽になった銀之助はトントンと指で軽く窓を叩いて言った。

「明かりがあるようだけれど」

「あぁ、おじいさんが一人住んでいるんですよ」

銀之助は窓の外から実験の行方を観察する研究者のように夜に沈む小さな陽の光の中にヒトの気配が生まれるのを静かに待っていた。しかし、待っている間、淡い橙の光の中に確かな生命の鼓動は感じられなかった。徹底的に軽い雨だけが降っていた。

ロビーに視線を戻すと若い男は玄関そばの便所から出てきて受付の椅子に戻って行く途中らしかった。歩行で揺れる彼の身体は若者らしい溌剌さを備えておらず、生物としての役割を何もかも終え家に帰る老人のように見えた。

銀之助は彼に鍵をもらい階段を上り、二階に向かった。二階には四つの部屋があった。間接照明の仄暗い光に照らされた廊下の一番奥、その西側の部屋の扉に彼の目当ての番号があった。銀之助は隣の部屋の前を通り過ぎる時、歩みを止め呼吸を浅くし耳を澄ませた。どこにも人の気配は感じられなかった。


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