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シン・コンセプト前夜 〜写真たちからはみ出して〜

こんにちは。ぺんぎんです。最近色々なことを考えつつ仮コンセプトを更新したので、noteにもまとめます✨
完全に自分語りである上に相変わらず稚拙な文章ですが、よかったらよろしくお願いします🤲
前後編にわけてお送りします。前編はシン・コンセプトを考え始める契機になったもろもろを、きっかけ、考察、今後への繋がりという流れでお話します。

※そんなに暗い話にする意図はなかったのですが、人によっては重いと感じるかもしれません。ジェンダー絡みの話題で疲れやすい方も注意してください。
※このnoteをスキップしてもコンセプトの記事(後編)は読めます。

1. 2つのきっかけ

私の”うらみ”は何でしょう?

先日、ムーンプランナーと自問自答ファッションのコラボ講演会をアーカイブ視聴しました(とっても面白かったのでオススメです)。

そこで話題に出た「うらみ」の話に触発されて、私がファッションに関して持っている「うらみ」って何かなと考え始めました。これが1つ目のきっかけです。
※ここで言う「うらみ」は必ずしも自覚されているものではないようです。
※あと、特定の人への憎しみとも違います。

花柄のワンピースと青い拳銃

年末年始に家族と交流すると、昔の写真などに触れることも増えます。私も実家に飾られている子供の頃の私の写真を改めて見る機会がありました。3歳ごろ?に写真館で撮ったもので、綺麗な花柄のワンピースを着て可愛いおもちゃと一緒に写っています。これまで何年も、ただただ可愛いものに囲まれているだけの写真だと思っていました。でも……

よく見ると私は謎の青い塊を握り締めていて、さらに見るとトリガーらしきパーツが見え、それは写真の雰囲気を完全に壊しかねない拳銃のおもちゃでした。
そこに気づいたとき、かすかな記憶が蘇った気がしました。子供の頃、可愛い可愛いと褒められながら写真館に行って青いキラキラしたものを選んだら、それがなぜか不評だった。でもそれを絶対に手放したくなかったという記憶が。(あまりにも小さい頃の記憶なので無意識の捏造かも)。

当時、両親や写真家はかなり苦心してこの写真を撮ったのだろうと思います。せっかく可愛い服を着せたのに娘は拳銃のおもちゃを手放さない、このままでは台無し……そこで周囲に可愛いおもちゃを置き、拳銃が拳銃だとわかりにくいアングルから撮ったのでしょう。写真の中の私は、よく見たら周囲のおもちゃに関心が無さそうでした。

正直に言うと私は、子供の私が拳銃のおもちゃを持っていたことが面白くなってしまいました。こんなに小さい頃から、私は結構中性的な人間だったんだなと。
これが2つ目のきっかけです。

2. 考察

前提:見栄と生まれつきが作り上げた私の中性志向

私は一般的に見て中性的な雰囲気の人間であるし、そうあろうとしていると思います。そんな私は、「なぜあなたは(わざわざ)中性的であろうとするの?」という質問とずっと向き合ってきました。
最初に言ってしまうと、それはわからないと思っています。中性的でない人は、なぜ自分が中性的にならなかったのか答えられるのでしょうか…?論理に何の隙もなく説明できる人は多分ごく一部です。
でも、最近その答えの一部がわかった気がするので少し書いてみます。

私は子供の頃から容姿コンプレックスの塊で、「自分を少しでも良く見せたい」と思っていました。そんな私の容姿はどのような特徴があるかというと、ずばり「中性的なファッションが似合いやすい」です(by 数々のイメコン系診断)。ある意味向上心に溢れていた私は、幼いうちに「自分には中性的なものが合っている」と薄々気づいていたのかもしれないです。

自分を少しでもよく見せるには、中性的にしたほうがいい。そして自分の内面にも、中性的な部分がある(キラキラ拳銃を選ぶとことか)。

結論としては、私は元々(容姿も内面も)中性的な要素を持っていて、子供の頃からうっすらそれを自覚していて、かつそれが嫌じゃなかったのでは?ということです。私は私の中性性が好きで、その良さを周囲にアピールしたかった。

※もちろん、女性性や男性性にもそれぞれの良さがあります。

うらみ:写真たちと私の悔しさ

ずばり、私が持っている「うらみ」の一つは、「私が好きな私(=中性性)を、(主に公的な場で)なかったことにされている」と感じてきたことではないかと思います。

日常生活での服装は自由でも、公的な場での服装はそうはいかなかった(当たり前かもしれない)。普段はパンツスタイルで過ごしていても、七五三や成人式となれば、そんなことはなかったかのように綺麗なお着物を着て写真を撮り。セレモニーにパンツスーツで出かけようとしたら、「なぜスカートではないのか。あなたはフェミニストなのか。」と言われ。

写真館で撮るような家族写真や通過儀礼(七五三、成人式)の写真、セレモニーの写真、結婚写真などは"ちゃんとしている"ことを記録に残すためのものだということはわかります。そこで自己主張する必要はない、ということも。そのような場で我慢をしている人は、私以外にも沢山います。そして、節目節目に私の写真を撮ってくれた家族の愛情と思いやりも感じています。

でも私は、無意識の私は、本当は「悔しかった」んじゃない??とも思うのです。だって以前近所に写真館があったときは、できるだけその前を通らないようにして避けていたし。。20代前半の頃は、「今もし私に何かあったら成人式の写真が遺影になるな(それは嫌だ)」と考えていたし。今の私は「もし誰かと結婚することがあったら、とても嬉しいですみたいな顔をしてドレスを選ぶことになるのか(それは疲れる)」と考えているし。
私が好きな私が、「公式には無かったことに」されているように感じていたのかもしれない。それは仕方ないことだったかもしれないけど、悔しいことだったのでは?

私は、「可愛いワンピースの私」よりも「青い拳銃を選んじゃう私」を記録に残したかったのでは?

3. 次にやること

これまでに写真館で撮った写真が遺影になるのが嫌なら、今からバチバチにキメた格好で写真館で一枚撮り、「もしものことがあったらこれを遺影に」と一筆添えて家においておくこともできます。

まあ、でも、それはいいかなあ。。。

今の状態で撮っても、圧倒的な負のエネルギーがある写真にしかならない気がするし、写真館について考えるととにかく気が滅入るのです。

うらみの本質に「私が好きな私に、スポットライトが当たらない」ということがあるなら、今からでも当てていけばいいと思うのです。写真館に行く以外の方法でも。

中性的であることにスポットライトを当てるのは、女性性にスポットライトを当てることと比べると正直やや難易度が高いです。世の中の動きは多様性の尊重に向かっていると思います。ただそもそも「多様性」という言葉を持ち出さなければ中性性について語れないのが、中性性が市民権を得ていないことの裏返しであるようにも感じます。

「私が好きな私」として中性性だけを考えると、その壁に突き当たって挫折してしまいそうです。それなら、「私が好きな私」のうち、これまでスポットライトが当たってこなかった部分を沢山リストアップして、そこにも光を当てていこう。

ーーそう思いたって次のnote(シン・コンセプト)に続きます。

以上、自問自答ムンプラの「うらみ」の趣旨からは少し外れた気もするけれど、シン・コンセプト前夜の話でした。

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