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第72期ALSOK杯王将戦挑戦者決定リーグを終えて

2022年11月22日、東京・将棋会館で第72期ALSOK杯王将戦挑戦者決定リーグの最終一斉対局が行われた。
この最終局ではここまで5戦全勝、勝てば挑戦決定、負けてもプレーオフが決定している羽生善治九段と、1勝1敗から3連勝して羽生先生の挑戦に待ったをかけ、勝利すれば5勝1敗で羽生先生とのプレーオフに持ち込める4勝1敗の豊島将之九段の直接対決という大一番が行われるとあって、対局前から大きな注目を集めていた。

生中継を配信する囲碁将棋チャンネルと囲碁将棋プレミアムではリーグ戦は普段は午後からのところを午前中から解説付きという中継体制。解説は奇しくも今年第5回ABEMAトーナメントのチーム豊島で魂のフルセット勝利が感動を呼んだ深浦康市九段だ。
タイトル戦の期間中は対局相手(羽生先生)のことばかり考えてしまうというエピソードから恋愛流とも呼ばれ、両対局者と縁の深い素晴らしい解説の人選にも胸を躍らせながら対局開始を見守った。

先手羽生先生の選択で戦形は角換わりとなった。最近の角換わり戦では午前中で7〜80手まで進むこともある中では比較的緩やかな、午前中34手までの進行だった。深浦先生は前述のABEMAトーナメントでの戦いのことや、それを機に豊島先生と研究会を開いた際、初対面となる開催場所の席主のかたに豊島先生がご自身の扇子を10〜15本ほどプレゼントされ、大変感激しておられた事、そういった気遣いの素晴らしいかたですというエピソードなどを披露され、楽しく観戦していた。形勢は両者とも互角。中盤戦に向けて期待は高まる一方だった。

昼食休憩後、午前中の50分間と休憩時間を含めると約1時間半の長考後の35手目、羽生先生は3筋に伸びてきた歩を横歩取りのように飛車でふわりと取った。敵の銀も目前に迫っている。大切な大駒である飛車は考えなしに狭い場所に行くと狙われて追い詰められかねない諸刃の剣でもある。この動きは日和ってすぐに飛車を安全な場所へ逃げたくなる私には意外で、さすがは羽生先生だと感心していた。
しかしこの手が精密機械のように正確かつ緻密な豊島先生の判断を狂わせる事になるとは、まだその時には思いもしなかった。

一見、羽生さんが居玉のままで、浮いた飛車も危なっかしく角で王手飛車取りが狙えるように見えるが、角打ちの返し技が利くのでこの手順は無理筋で、豊島さんは羽生さんの飛車の自陣への素通しを避け、歩を打って盤面を落ち着かせるでしょう、という深浦先生の解説がちょうど終わった頃だった。

13時過ぎの36手目、選ばないと思われたまさにその手(飛車の頭に銀捨て)を豊島先生が着手されたのだ。中継画面の評価値メーターは一瞬にして羽生90%、豊島10%を示す。咄嗟の出来事に一瞬何が起こったのか訳がわからず、私はひたすら狼狽した。

それは豊島先生も同じだったかもしれない。豊島先生の着手後にしばし盤面を眺め、おもむろに羽生先生が離席された。おそらく豊島先生はその時に既にご自身の錯覚に気づかれたに違いない。スラリと背筋の伸びた対局姿勢が美しい豊島先生が、珍しく痛みを堪えるかのように背中を丸めてうずくまる。
普段から滅多な事では表情を変えない豊島先生だからこそ、明らかな動揺が見てとれた。
これは7二銀の位置が1筋違えば成立するので豊島さんに思い違いがあったでしょうかと、深浦先生が慮るようにコメントされる。終局後のインタビューで「投了級」と豊島先生ご自身が仰るほどの痛恨の一手だった。
後手番で何とかして局面の主導権を握りたい豊島先生の焦りも少なからず影響したのかもしれない。弘法にも筆の誤り。トップ棋士の豊島先生としては非常に珍しい、中盤の入口で大きく形勢を損ねる大波乱の展開となった。

中盤に差し掛かったばかりのタイミングでの銀損は、相居飛車のトップ棋士同士の戦いでは誇張でも何でもなく豊島先生が仰る通り、致命的ダメージである事は間違いない。
鮮やかな振り飛車捌きから「さばきのアーティスト」という二つ名でも知られる久保利明九段は、以前に白鳥士郎氏のインタビュー記事でこう答えている。

「深浦さんの居飛車のあの粘りは驚異的だと思ってます。『居飛車でどうやって粘ってるんだ!?』と。居飛車で粘っても、ゆっくり倒れていくだけだと思うんですけど……そこをしっかり立ち直ろうとするので。」

静かに考慮しながらも、時折顔を歪める豊島先生。しかし、その苦しげな表情もほんのしばらくの間だけだった。
どんなに劣勢となっても、そこで決して終わらないのが「対局中に反省する暇はない」という名言を残した棋士豊島将之の真骨頂だ。
そこから18時過ぎの終局まで約5時間半もの間、駒得の有利をいかして盤石の体制で優位を築く羽生先生に対し、豊島先生はタフで不屈の粘りで知られる解説の深浦先生ご本人がよく頑張ってここまで凌ぎましたと仰るほどに、決め手を与えずに指し続けた。

豊島先生の対局をたくさん観戦してきて、これほどまでに敗勢の状態が長時間続くのは私にとって初めての経験だった。ただ、自分の失着と向き合わずにあっさり投了するのではなく、辛くとも現局面を受け入れ、必死に最善手を探す豊島先生の精神力と、この大一番の将棋に懸ける責任感の強さには改めて尊敬の念が強まるばかりだった。

しかし、相手はリーグ5連勝と絶好調のレジェンド羽生先生である。最終盤は二枚龍の挟撃体制で羽生玉に迫るも、一手届かず。豊島先生は迄、117手を以って投了された。
形勢を大きく損ねてから約80手もの間、心が折れることなく集中して指し続けた気迫。豊島先生のこの細身の体から放たれる強く誇りを保つ指し回しにはただただ心を揺さぶられてしまう。

終局後インタビューでは、普段から勝敗とは関係なくひとこと、ひとことを落ち着いて語る豊島先生にしては珍しく、少し早口で自嘲気味に、酷い将棋にしてしまって、すみませんでしたと仰られた。
私はそう言って記者を見つめた豊島先生の声が僅かにうわずっているように感じ、真っ直ぐに視線を向ける気丈さも相まって、ずっと我慢してきた気持ちが堰を切って涙が溢れてしまった。
豊島先生、ずっと苦しかっただろうし、ご自身への憤りだって当然あったはずなのに。よりによってタイトル挑戦を懸けた大勝負での信じがたい誤算に、絶望することなく指し続けた事はきっと豊島先生の今後の棋士人生の糧になる。心からそう思った。

数行のインタビュー記事とともに報じられては消えていく将棋の対局結果。私はこの王将リーグ最終局で、一筋の光を求めて懸命に道を探した豊島先生の終局までの5時間半の奮闘の事をきっとこれからも忘れない。それはまるでいつも失敗だらけの私に、豊島先生が何度も何度も手を差し伸べてくださるような、素敵な錯覚を感じさせてくれたからだ。
失敗しない人はいないし、盤面だって元には戻せない。大切なのはそこからどうするかなのだと。
言葉で言うのは簡単だけど、それを実際にやってみせてくださった豊島先生の頑張りを拝見して、私も私の道を頑張っていこうという勇気を頂けた。

第72期ALSOK杯王将戦は悲願のタイトル100期を目指す羽生先生がタイトル戦では初顔合わせとなる藤井聡太王将に挑戦という、多くの将棋ファンにとって楽しみな好カードに決定した。世間からの注目度も高く話題性も十分だ。2023年の幕開けに相応しい熱戦となることを期待している。
そして王将リーグ2位残留を決定した豊島先生には、ぜひ第73期挑戦者として王将戦の舞台に登場してくださることを願い、これからも応援していきたい。

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