見出し画像

将棋脳って文系?理系?観る将初心者の私が思うこと

将棋はロジック?

初心者観る将(自己判定アマ10級)の私が日々生まれたての赤ちゃんのように将棋を学ぶ中で、最初に将棋に対する先入観で大きく勘違いしていたことがある。それは将棋がロジックで結論が出るゲームだと思い込んでいた事だ。

私が将棋にハマる前、将棋との接点の記憶を辿れば30年以上前、学生時代まで遡る。将棋部は無く、囲碁将棋クラブに在籍していたのは学年でもトップクラスの賢い男子ばかりだった。将棋強い=理系賢い男子、という漠然とした私のイメージはきっとここからだ。

私は解が一つしか無いものが苦手だ。よく言えば自由を愛し定型に捉われない発想ができるが、つまりはただ単に論理的思考ができない。理詰めで、根拠に基づいて正解を導きなさいと言われると嫌気がさす。学生の頃は、途中計算を間違えると部分点すらない数学などは壊滅的だった。

将棋でいうと序中盤はもう、楽しくて仕方がない。次はどこから攻めようかなと、夢いっぱいだ。ところが終盤になり、詰みが生じるともうそこからは一手の自由すら無い。ここに指されたらここしか無い、そうやってじわじわと追い詰められるのがイヤでたまらない。もう私に自由は無いの?まるで思春期かのように叫び出したくなる。

相手は北斗の拳ばりにお前はもう詰んでいる、と悟っているのだと思うとますます癪に障る。読み切ったことをすーん、という言葉で表現するかたがいるが、私が相手にそれをされたらもう、平静を装っていても、内心は将棋盤をひっくり返したいくらいに悔しい気持ちだろう。

実際、中継でも評価値に「後手勝利(19手詰)」などと表示されたら途端に見る気を失う。自由に指せるようにみえて、まるでお釈迦様の掌の上の孫悟空じゃないかとしょんぼりしてしまう。
最終盤、ラストスパートの局面ではそれも将棋の厳しさとして確かにある。しかしその反面で、実はそんなに一筋縄ではいかないのが将棋の醍醐味だともいえるのだ。

ロジックでは語れない将棋の奥深さ

もし、将棋がただ手を読むスピードがいかに速くて正確かだけを競うゲームなら、極端に言えば人間が指す必要は無い。可能で有ればスパコン並みの超高性能コンピューターに解析させれば、想像もつかないがおそらくほぼ秒単位で最善手の結論が出せるはずだ。
その理屈からすると名人戦など9時間の持ち時間で2日制だなんて、非効率極まりない無駄な時間という事になってしまうし、もちろんそんなはずもない。

将棋の面白さはAIの推奨手通りに指したか、勝つか負けるかだけにあるわけでは決してない。
なぜなら人間同士が指す将棋には、必ず人間ならではの美学や拘り、闘志、誤りといった様々な感情が盤面に指し手として投影されるからだ。
勝利への執念を全面に押し出し、どんな手段を使っても勝とうとする将棋もあれば、不出来な棋譜を残す事をよしとせず、まるで陶芸家が作品を叩き割るかのように潔く投了する先生もいる。

対局開始から終局までは2人の先生方の壮大な大冒険を一緒に味わっているようなものだと思う。例えばロールプレイングゲームで、次はあの村へ行ってこの村人と話してこのアイテムを貰ってからでないと次へは進めない、と手順が決まっていたらどうだろう。きっと面白さ半減は否めないと思う。

私の中では将棋観戦記はノンフィクションルポの中でも特に人間心理をよく捉えていて非常に面白い。無言で指し手を重ねる中に秘められた棋士の気持ちを記者の筆力で浮かび上がらせる。何ともエモーショナルな人間ドラマがそこに感じられる。

将棋パズル 正解は1つしかありません?

普段の将棋の勉強の中でも私は詰将棋が特に苦手だ。別解もたまにあるもののほとんどの場合は、決められた手順以外に正解は無い。慣れだし鍛錬が足らないだけだというお叱りは甘受するくらいには私にとって詰将棋は宿題やらされてる感=苦行感が強い。
詰将棋とは違うが、私が途方に暮れたのがTwitterで見かけたこの問題だ。


1三桂を取られないために後手が駒1枚だけ追加するなら?

このツイート主である京都大学名誉教授の若島正氏は詰将棋やチェスプロブレム作家としても名高い。新幹線移動中の豊島将之先生にこの問題を見せたところ1分も経たずに正解されたとのことだ。

畏れ多くも豊島先生と同じ時間で解けるとは思わないものの、好奇心でやってみた。
5分、10分。時間だけが過ぎる。正解は1つしかない?たくさん候補手あるけど?ますます混乱する。

正解がわかっているかたには、私が悩む過程が「どうしてわからないのかがわからない」と思うが、私は手がかりすら掴むことが出来ずに、仕方なく解答手を見た。
しかし何ということか、答えを見たのにまだ意味がわからない。自分のポンコツぶりがほとほと情けなかった。
長い長い時間が流れ、やっと正解手の意味を理解した頃には優に30分近くは経っていただろうか。

実戦ではこの決め手となる後手の駒にどいてもらう為の手段がある場合がほとんどで、ましてや大事な王様がのこのこと動き続けるはずもない。対局で同じ状況が出現する確率は限りなくゼロに近い。私が驚いたのはその、ありえない局面と設定でさえ、出題者の意図を読み取り、駒の急所を一瞬にして見抜いている豊島先生のセンスだ。

普段の将棋の定型ルールだけで脳が回転していたらこんな風に柔軟には頭を切り替えられない。
駒を動かせるのは自分だけ、玉だけ、何回でもOK。この特殊ルールを理解するだけでも普段の将棋に慣れていると咄嗟には難しいが、トップ棋士はその発想力までもが一流なのだと改めて感じた。

将棋脳は文系・理系のスーパーハイブリッド

ここまで考えてみた私の結論としては、将棋のプロの先生方は文系だ、理系だというレベルで語ることはもはや不必要なくらいに途方もない能力をお持ちだということだ。つまり、将棋にはどちらも必要なので文系寄りのかたも理系寄りのかたも、その両方を高める努力が有ればきっと道は開ける。なかなか棋力の向上を感じられない私は、もっと理論的に考える力を磨いていきたい。

将棋棋士の先生方は文章表現力にも長けておられる。私がnoteを始めたきっかけとして、関西将棋会館公式noteに寄せられる先生方の軽妙なコラムに魅了されたことも大きい。
最後にプロ将棋棋士、現役東大大学院生(情報工学専攻)、吉本興業とのマネジメント契約と三足のわらじで活躍する谷合廣紀四段のTwitterの投稿を紹介しよう。

野暮な説明をするまでもない。情景が浮かび擬人化で印象付けるこの文章力たるや。「このツイートがすごい!」企画でノミネートの募集があるなら私は間違いなくこの一節を推したい。
知力と創造力の最高峰、「将棋界がすごい!」。
声を大にしてこれからもお伝えしていきたい。

【将棋パズルの答え(ネタバレ)】

将棋の反則に「王手見逃し」がある為、相手の駒の利きに玉を進めることは出来ない。この1六飛以外の位置であれば、1三桂を直接取るか、その追加した駒を玉で除去してから1三桂を取ることができる。飛車と桂馬の利き、王手見逃し反則ルールをうまく利用した良問。わかった瞬間はまさに脳科学者の茂木健一郎さんが仰るところの「アハ!体験」だ。


飛車のコビンに桂馬の利きがあり飛車を除去できない

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?