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発信を磨く大切さを知った日

前回の、「インターネットの書き込みをみて傷つきました」という話の続き。

「傷つきました」だけではなく、学びもあった。

1つは、関係性の有無によって、言葉の伝わり方は全く違うということだ。

前職のスラック、DMでわたしの悪口を堂々と書いているところをたまたまとあるひとの後ろの席から見えて、発見したことがある笑。でもなんとも思わなかった。興味ないから。

勝手だけどつながりと、友愛と、安心を求めていたから傷ついた。

ただわたし自身、そのネットに書き込む人がどういった人なのかまったく考えたことがなかった。そもそも自分がどんなことを発したくて、どんな人に1番伝わってほしいのかも、自身がネットに書き込む際に考えたこともなかった。書き込みに傷つくのは勝手だけど、では自身が何かを発信するときに人に傷つかないよう配慮していたかというと全くそうではなかった。

発信する際は、どんな人が見ているのか、という考えをめぐらす。そのためには「人を知る」ことをしないといけないと感じた。

2つ目は、上記に付随して「誰もが傷つかない発信をすることは難しい。そのうえで、自身の言葉を磨く必要がある」ということ。

森鷗外の「舞姫」を読んだ。誰もが知っている名作。主人公がうじうじしていて、ただひたすらにヒロインがかわいそうなのだけど、その描き方から「当時女性の立場が弱かったこと、彼はそれに抗議したかったという想い」が伝わってきて、感動した。

多分、森鷗外の時代にtwitterがあったとして、彼は一言でこの作品をどう表現したのかな?と思った。多分「女性の立場が低すぎる!許せないなう!」という一言の内容だったら、全然共感も得られないし、当時の状況だったら難しかっただろう。その想いを一つの物語に込めて、主題として入れていたのは本当にすごい表現力だとこの年になって気づかされた。

小手先の発信力ではなく、自分の伝えたいことを絞り、表現力を磨き上げ多くの人に届ける力。自分には全くない力だと痛感した。

自身がコンテンツで傷つく人の気持ちがわかるのなら、せめて自分はその人たちのために何が出来るかを考え続けたい。

今まで以上に発信での文章を気を付けて磨こうと思った日でした。(この文ほぼ即席ですが…)




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