テリー・ギリアムのドン・キホーテ/The Man Who Killed Don Quixote

(テリー・ギリアム監督 2018年 イギリス、スペイン、フランス、ポルトガル、ベルギー)

スクリーンを通し、監督と混沌を共有体験するための作品

災害、病気、資金難などにより(どういう事情で映画制作が暗礁に乗り上げるか?の見本集のよう)19年間の間に9回の失敗を経て完成した「呪われた」執念のギリアム作を、心して鑑賞した。時の人アダム・ドライバーの力及ばず、満席とは言えないチネチッタにて。

ミゲル・デ・セルバンテス原作のメタフィクション要素、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別が付かなくなる筋立てなど、非常にテリー・ギリアムらしく、自身が取り扱う作品として現実を顧みずこだわってきたのがわかる。その事実自体が既に、ドン・キホーテの狂気と重なるメタ感がある。

様々な障害による紆余曲折の末に辿り着いたのは、学生時代にドン・キホーテを題材にした制作経験のある現CMディレクターがその過去の自作にサンチョ・パンサ(ドン・キホーテの従士)として巻き込まれていく、というこれまたメタなオリジナルストーリーである。「テリー・ギリアムの」という邦題の枕は、それを表している。しかし、これだけ入れ子構造を重ねてしまう対象がドン・キホーテであれば、盲目的な執着と災いによる成り行きが相乗する痛々しいリアリティ作のようになっていくことは誰もが予想するところではある。

果たして、大活劇ではあるが、複雑で冗長で断片的かつ暴力的な老人の閑話をきかされている印象。そんなことはわかっておる!と怒られそうだ。もはや、そういう監督の混沌をスクリーンを通して共有体験するための作品であり、「お前だって間もなくこうなるんだ」と呪言を投げかけられるようでもある。鑑賞後、内容云々より、「監督、とにかく完成よかったですね。お疲れ様!」とまじなって日本初のシネコンを後にした。

ところで、原作は量販店名だけでなく、他のメディアへの展開も多い。音楽もリヒャルト・シュトラウスが有名だが、モーリス・ラヴェル作を取り上げておきたい。

「ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ」(1932-1933)

この映画とは対照的に、ドン・キホーテのキャラクターを7分に濃縮した3曲から成る連作。
1. 空想的な歌
2. 英雄的な歌(叙事詩風の歌)
3. 酒の歌

作曲家には内緒のプレゼン仕事だったようで(そんな非礼はいつでもあるんだな)、今作は落選。洒落と粋を感じさせるダイナミックな作品だが。そして、この作品を最後に脳疾患で譜面を起こすことができなくなり遺作になってしまう。図らずも、ラヴェルも「ドン・キホーテの呪い」に加担してしまったのである。

(安田寿之)

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前略 テリー・ギリアム様

過日、「テリー・ギリアムのドン・キホーテ(邦題)」を拝見致しましたが、私にはこれがテリー様の世界に向けた遺言、あるいは辞世の句にも思えて、ただならぬ胸騒ぎを抑えきれず、この思いを手紙にしたためるべくパソコンに向かった次第です。突然のお手紙、お許しください。とはいえ、映画を見てからはや2月。思うように筆が進まず、生来の筆不精に恥じ入るばかり。重ね重ねご容赦ください。

世間では本作に対し、支離滅裂だとか、老人のたわごとだとか、挙句は、ついに爺さんトチ狂ったな、などと厳しい評価の方が多いようです。しかし私には、本作がテリー様の創作活動の集大成に思えてなりません。

テリー様の作品にはよく、狂気と現実との間を行き来し翻弄される男が登場しておりました。たとえば、フィッシャー・キングで聖杯探しのミッションを負ったロビン・ウィリアムズ、未来世紀ブラジルで自身がヒーローになる物語の妄想のさ中に屠られるジョナサン・プライスなど。本作で、ドン・キホーテに触発され狂気の彼方にイッてしまった老人がその流れを汲んでいるのは間違いありませんが、そもそもセルバンテスのドン・キホーテ自体が、騎士道物語に読み耽りイカれてしまった老人という設定ですから、セルバンテスの狂気とテリー様のミームが結ばれるべくして融合し結実したと言えるのではないでしょうか。また、20年前の製作開始から幾度も中断の憂き目を経て本作を完成させた監督自身の姿も重ねて見てしまうのは私だけではないはずです(邦題が「テリー・ギリアムの」なのも配給会社の意図が働いているのでしょうか??)。そして何より、度重なる制作中断によるキャスト変更の末、ジョナサン・プライスがこの役を演じたことには不思議な縁を感じてしまい、それ故に不吉な予感を覚えずにおられません。

さらに本作は、このミームが次々に伝染していく幕引きで、ともすると、映画を見た我々まで狂気の彼方に道連れにしようとするテリー様のシャレにならない悪意を感じますが、さすがにこれはモンティ・パイソンばりの悪ふざけであると願いたいです。

折しも、コロナウイルスが世界各地で蔓延する中、映画館がクラスター温床の1つとして閉鎖され、あろうことかドラえもんに扮したブルース・ウィリスが未来からやって来るなど、12モンキーズの終末世界との不気味な符合も感じさせる今日この頃。これは単なる偶然であることを切に祈るばかりです。そして、いつかコロナウイルス禍がウソのように沈静化した頃にまた突如現れて、シニカルでブラックな笑いで我々を愚弄してくれる日を楽しみにしております。あの「まさかの時のスペイン異端審問」のように!そのときまで、どうかお元気で。

草々

(石井裕)

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