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カプタン・パシャはなんと訳すか

noteにアカウントを作ったので、オスマン語の軍事史や衣装に関する文献を日本語訳するときにどういうふうに頭を悩ませているかという話を書いていこうと思います。怠惰が取り柄なので三日坊主になったらすいません。

第1回は「カプタン・パシャはどう日本語訳しよう?」という悩みです。

カプタン・パシャは何をしていた役職か

カプタン・パシャ(Kaptan Paşa)はオスマン帝国の艦隊司令官の役職名です。オスマン語ではカプダーン・パシャ(Kapudân Paşa)と綴られ、別名カプダーヌ・デルヤー(Kapudân-ı Deryâ)も使われます。

13世紀末に内陸のソユットという町から起こったとされているオスマン君侯国は、マルマラ海(ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の間にある内海)の両岸を支配するビザンツ帝国領を侵食していき、ニカイア(イズニク)の征服後にその北にあるプラエネトスという港で海に達し、カラ・ミュルセルという人物が指揮する最初の艦隊を持ったということになっています。プラエネトスはイズミト湾の南岸にあり、現在ではその名もカラミュルセルと呼ばれている町です。その後、バルケスィルのあたりにいたカレスィ君侯国を併合し、ガリポリ(ゲリボル)を征服してダーダネルス海峡経由でバルカン半島に進出する程度の海軍力を得ていきます。

オスマン帝国の本格的な海軍創設は、15世紀初めにスミルナ(イズミル)のあたりにいたアイドゥン君侯国を併合し、エーゲ海への進出を開始していく時期になります。この頃の海軍の指揮官はベイの称号を持っていて、デルヤー・ベイとかカプダーン・ベイとか呼ばれていました。デルヤーはペルシア語で「海」という意味であり、カプダーンのほうは確かな語源は不明ですが、イタリア語のカピターノかそれに類する語の借用とされており、地中海のロマンス諸語を話す船乗りたちがオスマン艦隊の建設に影響を与えたことを示唆しているように思います(研究をフォローしてないので印象論。すでに事情が研究で明らかになってたらすいません)。

16世紀初め、エーゲ海のレスボス島出身と言われているコルサン(ムスリム海賊)で、アルジェリアの沿岸部を独力で征服していたバルバロス兄弟(彼らの出自もキリスト教徒かもしれない)がオスマン帝国に帰順。1533年、弟のフズル・レイスがスレイマン1世によってイスタンブルに呼び寄せられ、アルジェ州(ジェザーイル)総督職に加えてオスマン帝国艦隊の指揮官であるカプダーンに任命され、さらにオスマン艦隊の乗組員の供給地であったエーゲ海沿岸の島々や港湾を支配する海洋州(ジェザーイル・バフリ・セフィード)の総督職も加えられてハイレッティン・パシャと名乗ることになります。

州名がややこしいので脱線します。ジェザーイルはアラビア語で「島」の意味で、我々がフランス語でアルジェと呼んでいる都市はアラビア語ではアル・ジャザーイルと言い、トルコ語ではジェザーイルになります。したがって、単にジェザーイル州といえばアルジェ州のこと。一方、バフルはアラビア語で「海」、セフィードは「白」であり、トルコでは「白い海」はエーゲ海や地中海のことを指すので、ジェザーイル・バフリ・セフィードは「地中海の島」という意味になり、「海洋州」と訳されます。脱線終わり。

ともあれ、バルバロス・ハイレッティン・パシャ以降、オスマン艦隊のカプダーンは海洋州を支配下に置き、州総督(ベイレルベイ)の称号であるパシャを名乗ることができるようになりました。さらに16世紀後半には宰相(ヴェズィール)と同格になって御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)の列席者となり、カプタン・パシャまたはカプダーヌ・デルヤーの地位が成立しました。17世紀以降のカプタン・パシャはイスタンブルに常駐しており、金角湾にある造船所の管理監督を平時の任務としています。艦隊が定期的または不定期に外洋に出る際は、カプタン・パシャが乗船して指揮を取りました。

もっとも、カプタン・パシャの重職化は大きな弊害として、海事の経験がまったくない宰相級の軍人・官僚が州総督から大宰相に至る出世の階梯として任命されるという事態を招きました。カプタン・パシャが船酔いでまったく海に出られなかったというような話もあります。カプタン・パシャ職の成立はオスマン帝国海軍の衰退の始まりでもあるわけです。

19世紀に海軍の近代化が始まりますが、もともと御前会議→閣議の列席者であり、マフムト2世の時代まで海軍の軍政と軍令をすべて掌握していたカプタン・パシャは(相変わらず被任命者の資質の問題を残しつつ)そのまま地位を残していました。

1839年、タンズィマートが始まると海軍の機構改革にも手がつけられ、1845年に海軍評議会が設立され、軍政機構が整えられます。1867年、軍政機構は海軍省となり、艦隊の指揮官であるカプタン・パシャは廃止されて海軍大臣に統合されました。その後、海軍大臣が一時的にカプタン・パシャに改称された時期もあるのですが、1880年以降は海軍大臣がオスマン帝国崩壊まで存続することになります。

旧海軍省庁舎。老朽化が著しく、保存と改修工事のために屋根がかかっている。(2019年撮影)

では、なんと日本語訳するか

前置きが長くなってしまいました。本題はオスマン語で書かれたオスマン帝国の軍制史の日本語訳の際に、カプタン・パシャをなんと訳すかです。

まず日本語の概説書や事典を訳例を見てみましょう。本棚を眺めて目についた本を適当に引っ張ってきました。

  • カプダン・パシャ(海軍提督)(三橋冨治男『イスラム事典』平凡社, 1982)

  • カプダン・パシャ(提督)(小山皓一郎『改訳トルコ史』白水社, 1982)

  • 大提督(鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社, 1992)

  • 海軍提督(永田雄三『成熟のイスラーム社会』中央公論社, 1998)

  • カプタン・パシャ(オスマン朝海軍司令長官)(新谷英治『岩波イスラーム辞典』岩波書店, 2002)

  • 大提督(新井政美『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とはなんだったのか』講談社, 2002)

  • カプダン・パシャ(大提督)(小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』山川出版社, 2004)

  • オスマン海軍の提督(林佳世子『オスマン帝国500年の平和』講談社, 2008)

  • 海軍提督(小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』中央公論新社, 2018)

概説書はたいていオスマン海軍の歴史には最低限しか触れられておらず、バルバロス・ハイレッティンの説明の中でさらっと「提督」「海軍提督」と訳すものが多いようです。「提督」だけではただの艦隊の指揮官であり、17世紀以降の地位を表現するのには物足りないと思うので個人的には却下。

次の目につくのは「大提督」ですが、これは英語ではカプタン・パシャがGrand Admiralと訳されることが多いので、(やや直訳気味ですが)英語表現を借用したものではないかと思います。ただ、現代トルコ語ではBüyük Amiral(大提督)はNATO諸国のFleet Admiralに相当する海軍最高位(非常置)の階級で、「海軍元帥」と訳すべきものなのでどうもしっくりこないなあというのが個人的な印象。また、19世紀の後半、実質上の海軍大臣であった時代まで「大提督」なのはどうだろう。

個人的には新谷先生の「オスマン朝海軍司令長官」がいいのでは?とも思うものの、『岩波イスラーム事典』の立項は「カプタン・パシャ」となっており、オスマン朝海軍司令長官はあくまでカプタン・パシャの説明文でしかありません。「司令長官」というとやはり近代日本海軍の連合艦隊司令長官が頭に浮かんでしまい、前近代の説明の中では時代錯誤にも感じます。

やはりカプタン・パシャはカプタン・パシャであって訳しようなんかないのでは?とやや投げやりに考えもするのですが、オスマン語文献の翻訳という観点では、原文の箇所によってKapudân PaşaとあったりKapudân-ı Deryaと書いてあったりするのを現代トルコ語のカタカナ表記である「カプタン・パシャ」にまとめていいのか?という葛藤がありました。

結論としては、今はKapudân Paşaは「カプタン・パシャ」、Kapudân-ı Deryaは「艦隊総司令官」と訳語を分けるようにしています。読者にはわかりにくいのかもしれないと思い、まだ決意は揺らいでいる状態です。


翻訳には悩みが尽きません。こういうお悩みを時々こちらに書いていきたいと思います。

(誤字脱字は見つけたときに随時修正しています。)