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『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』第4章 クリミア・ハン国の国家と社会

クリミア・ハン国は、モンゴル帝国から引き継いだ中央ユーラシアと、オスマン帝国から影響を受けた中東イスラム社会の二つの政治的伝統に拠って立つ国家であった。その政治的な権力と権威、支配する領域と領民の範囲は、君主であるハンが名乗った称号に端的に表明されている。

1682年、クリミア・ハン国が政治的に対等、理念においては格下の相手とみなしていたロシアのツァーリに宛てた書簡における名乗りは次のようなものであった。

かのお方

ムバーレク・スルタンの子、ムラト・ギライ・ハン、わがことば

神聖にして至高なる上天のお方の慈悲と恩寵により、大オルダならびに大ユルトの、クリミアの玉座ならびにキプチャク草原の、タトとタヴガチの、山の間のチェルケス人の、あまたのタタールならびに数え切れないほど多くのノガイの、右翼と左翼を統べる偉大なる帝王にして最上のハン

クリミア・ハン国において、ハンは実態としてはオスマン帝国の支配下にあり、その信認によってのみ君臨できる君主であったのはこれまで見てきたとおりであるが、対外的な名乗りにおいては中央ユーラシアの伝統にのっとったきわめて尊大な称号が用いられていた。

オルダは天幕、ユルトは牧地を意味する。大オルダは、15世紀頃の用法ではヴォルガ川下流にあるジョチ・ウルスの都サライを支配する政権を意味する語であるが、17世紀後半のムラト・ギライは当然この地域を支配していないので、大オルダならびに大ユルトの帝王とは、チンギス・ハンの正統な継承者であることを含意する。クリミア・ハン国が実際に支配した地域はクリミアの玉座とキプチャク草原の一部、すなわちクリミア半島から黒海北岸に広がるステップに限定されていた。

列挙された領民も、クリミア・ハン国の支配を反映したものである。

タトとタヴガチは、いずれも8世紀の突厥碑文にさかのぼる古い言葉で、当時はモンゴル高原にいたテュルク系の遊牧民から見て東方の森林の住人や、南方の中国人を指していた。クリミア・ハン国では、この語はハン国の建国以前からクリミア半島の中南部に居住していたゴート人、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人、イタリア人などの諸民族を指した。ハン国統治下では日常的にテュルク系言語を話し、イスラム教を受容する者が漸増し、タトとタヴガチの諸民族のテュルク・イスラム化が進んでいた。

チェルケス人は、北西カフカスの山岳地帯に居住する諸部族の総称である。クリミア・ハン国が存在した15世紀から18世紀にかけて、北西カフカスは政治的な帰属が不分明であり、チェルケス諸部族はハンに臣従する一方で、オスマン帝国とも個別に関係を持っており、両属に近いような状態だった。

チェルケス諸部族は必ずしもクリミア・ハン国に従順ではなく、しばしば敵対することがあった。16世紀のサーヒブ・ギライ1世はチェルケス人を服属させるために5回にわたって遠征を行っている。

チェルケスはクリミア・ハン国にとっては人的資源の供給者としても重要であった。チェルケス人は自由民や奴隷としてクリミアにわたり、女性は王族や貴族の後宮に仕え、男性はバフチェサライの宮廷にハンの家臣として出仕して、軍人として栄達する者もいた。

タタールとノガイは、13世紀にモンゴル帝国を構成した遊牧諸部族の末裔であり、ジョチ・ウルスの継承政権であるクリミア・ハン国にとっては基幹的な構成員である。

タタールは元来、突厥碑文においてタトと併用された言葉で、タトと同様に東方に住む人々を指す語であった。13世紀にモンゴル帝国がテュルク系遊牧民のキプチャクを征服・吸収した際に、隣接する東欧の諸民族は、キプチャク草原の新しい支配者となった東方のモンゴル=テュルク系の人々をテュルク系言語から借用したタタールの語で呼び始めた。このため、タタールはロシア東方のモンゴル=テュルク系の人々につけられた他称である、と説明されることも多いようだが、ことクリミア・ハン国においては、ロシアに併合される以前から部族の人々はタタールを自称としていた。

タタール

クリミアにおいてタタールを称したモンゴル=テュルク系部族民たちは、かなり早い時期に遊牧生活をやめ、半島中南部の山岳地帯とその麓において、定住農耕と牧畜を営んだ。遊牧を捨てても部族の組織は社会的・政治的な構成体として維持されており、各部族はベイの称号を持つ部族長階層と、部族長と系譜を共有し、ミルザ(「部族長の息子」を意味する)の称号を持つ貴族階層から成り立っていた。

ノガイは、15世紀にマンギト部族のエディゲの末裔によって率いられ、カスピ海北岸に遊牧していたモンゴル=テュルク系の人々である。クリミア半島のタタール人たちは、マンギト部族の遊牧民を自分たちと区別してノガイと称した。16世紀にロシアに服属する大ノガイとクリミア・ハン国に服属する小ノガイに分裂し、黒海北岸のステップのうち、ブジャク(ドナウ川とドニエストル川の間)、イェディサン(ドニエストル川とブグ川の間)、ジャンボイルク(ブグ川とクリミアの間)、イェディチクル(クリミア半島の北方)、クバン(ドン川とクバン川の間)にそれぞれ分散した。クリミア・ハン国は各地域のノガイに司令官セラスケルを総督として送り、間接的に統治した。また、ノガイの一部はクリミア半島の内部に移住し、タタールの諸部族と並ぶクリミア・ハン国の構成員になった。

クリミア・ハン国外部の文献では、ノガイはノガイ・タタールと呼ばれ、クリミアにいるタタールはクリミア・タタールと呼んで区別したり、もっと単純にクリミア・ハン国に属するモンゴル=テュルク系の人々を漠然とクリミア・タタールと呼んだりしている。しかし、同時代のハン国の人々にとっては、クリミアにいて大部分が定住化していた部族の構成員がタタール、主にクリミアの外にいて大部分が遊牧生活を維持していた部族の構成員がノガイであって、両者は区別されていた。

今日、クリミア・タタール民族と呼ばれているのは、クリミア半島において、テュルク系言語であるクリミア・タタール語を母語とし、イスラム教を信仰する人々である。これまで見てきたように、この定義に当てはまる人々には、クリミア・ハン国の基幹的な構成員であったタタール、ノガイの部族民と、クリミア・ハン国と半島南端のオスマン帝国直轄領においてテュルク系言語を日常的に話し、イスラム教を信仰するようになったタトとタヴガチ、チェルケスなどが含まれ、多様なルーツをもっていた。

これらさまざまな民族・部族からなるクリミア・ハン国の領民の上に君臨するのが、チンギス・ハンの子孫として血統的な権威を持つクリミア・ハン家の人々である。

ハンは、チンギス・ハンの正統な継承者であり、チンギスの家系から選出されて即位する君主である。さきに見たように、ロシアにあてた書簡においてハンは自らを「偉大なる帝王」と称した。帝王パーディシャーという語は、オスマン帝国ではもっぱらその君主(スルタン)を指す語として使われていたものである。クリミア・ハン国ではオスマン帝国との関係では自らを帝王と称することは控え、むしろ「帝王のしもべ」と卑下すらしていたが、クリミアの国内関係において、そしてオスマン帝国以外との対外的な関係においては、ハンはオスマン帝国のスルタンと並び立つ偉大な帝王であった。

理念の上では、ハンはチンギス・ハン家の一門とタタール諸部族による集会であるクルルタイ(モンゴル帝国のクリルタイ)で選出される。しかし、実態としてはオスマン帝国がハンの即位を認証しなければその地位を保つことはできなかったし、16世紀以降オスマン帝国が継承にしばしば介入し、17世紀には、クリミア・ハンはオスマン帝国の都合によって容易に任免される役職のようになっていた。

ただし、オスマン帝国において、ハンはチンギス・ハンの血統を継承する貴種として尊重されもしていた。オスマン帝国の儀礼では、ハンがイスタンブルを訪問する際にはオスマンの君主は玉座から立ち上がって歓迎の言葉を述べるという最上の待遇において迎える定めであった。ハン宛てに発せられる文書は属領の総督あてのようなぞんざいな命令書ではなく、外国君主あてのものと同じ「勅書ナーメイ・ヒュマーユーン」という形式が用いられた。オスマン帝国は直轄領に含まれる町の徴税権をハンに世襲の権利として与え、黒海沿岸のシリストレ県などの行政権がハンに一時的に委ねられることさえあった。

クリミア・ハン国の王族は、ハジ・ギライおよびメングリ・ギライの男系子孫であり、オスマン帝国の皇族と同様にスルタンの称号を許されていた。ハンは、王族の中から後継者候補として有力な息子や兄弟をカルガイに任命し、ハンの統治を補佐する副王とした。ハンはクリミア半島南西部のバフチェサライ、カルガイは半島中部のアクメスジト(現在のシンフェロポリ)に駐屯し、クリミアの統治と遠征時の軍の指揮を分担した。さらに16世紀後半のメフメト・ギライ2世のとき、カルガイの座をめぐる争いを解決するため、カルガイの次席の副王としてヌーレッディンという役職が追加された。ヌーレッディンはもともとノガイの副王が名乗っていた称号である。クリミア半島と大陸の接続部を守る要衝オルカプや、クリミア半島の外側に居住するノガイを支配する司令官セラスケルも王族から選ばれ、クリミア・ハン国の上級支配階層はハンとカルガイ、ヌーレッディン、セラスケルら王族であった。

もっとも、ハン国で真に大きな力を持っていたのは王族ではなく部族であった。

年代記によると、ジョチ・ウルスの伝統においてハンの重臣としてその擁立を左右するのは「カラチの四ベイ」と呼ばれる4部族の部族長であった。カラチは「黒い人」を意味し、貴種であるチンギス・ハン家に対し、チンギス家に属さない庶民を指す。クリミア・ハン国においてこの四ベイに当たる部族構成は諸説あり、シリン、アルグン、バリン、キプチャク、シンジヴト(セジュド)などが挙げられ、時代が下るとノガイのマンギト部族の分家でクリミア半島に移住していたマンスールが含まれる場合もある。この中でもっとも強い力をもったのはシリン部族であり、15世紀後半の部族長で筆頭ベイの称号を有したエミネクは、メングリ・ギライの後継者争いとオスマン帝国の征服に大きな役割を果たした。

部族の部族長ベイ貴族ミルザたちは、イスラム教徒と非イスラム教徒の定住民からなるクリミア半島の村々を封地ティマールとし、徴税権を保有した。ベイは特に大きな封地を部族領ベイリクとして世襲し、ハンの行政権が及ばない独立的な領土として支配した。

ハンや王族、有力なベイの下にはチェルケス人奴隷などからなる家臣団カプクルが仕えていた。家臣団のうち最大のものはハンの宮廷で、チェルケス人のほか、オスマン帝国から賜与され、給料もオスマン帝国の国庫から支給される砲兵トプチュ銃兵テュフェンクチなどの歩兵セクバン軍団や、タタール貴族の子弟から集められた騎兵オグランなどの常備軍が含まれていた。

ハンの宮廷の家臣団ハン・クルは多くの役職に分かれていたが、その最有力者は「御門の執事カプ・アガ」である。この役職はハンの代理人として、オスマン帝国や諸外国の大臣と直接やり取りをする権限を有しており、ハン国の宰相に相当する。さらに宮廷には、家臣団のほかに軍人法官カザスケルを筆頭とする法官カーディーたち、クリミアのムフティなど宗教上の知識を有するウラマー官僚や、財務と文書行政をつかさどる書記官僚たちが仕えていた。こうしたカプクル、ウラマー、書記からなる官僚機構はオスマン帝国のものとよく類似しており、クリミア・ハン国の国制が部族を基盤とする中央ユーラシアの伝統に属するのと同時に、オスマン帝国の強い影響を受けていたことを示唆する。

クリミア・ハン国における最高意思決定機関は御前会議ディーヴァーンである。クリミアにおけるディーヴァーンには、ハンを中心にして、カルガイ、ヌーレッディンら主要な王族、宰相やハン・クルの隊長たち、ムフティ、カザスケルらのウラマー官僚、財務長官デフテルダルらの書記官僚に加えて、部族のベイたちが出席することになっていた。ハンの使用人である宰相と家臣団に加えて、ウラマーが官僚として列席したことはオスマン帝国の影響とみられるが、部族のベイたちがディーヴァーンで発言権をもつのはモンゴル帝国以来の中央ユーラシアの伝統であり、ディーヴァーンの構成からもクリミア・ハン国の特徴は明らかである。

クリミア・ハン国の軍隊は、ハンの保持するセクバン、オグランなどの家臣団からなる常備軍と、タタールとノガイの部族から召集される兵士によって成り立っていた。理念としてはハンの指揮する中軍と右翼、左翼からなり、右翼はカルガイが指揮してシリン部族のベイたちとタタールの諸部族が属し、左翼はヌーレッディンが指揮してマンスール部族のベイたちとノガイの諸部族が属するものとされる。

タタールの部族民は、戦時には騎兵となって参戦することになっていた。ところが16世紀後半頃には、定住化したタタールの中には生活に不要になった馬を養わない者も現われた。彼らは戦時には金でわざわざ馬を借りたり、はなはだしい場合は武器すら持たずに徒歩で遠征に参加することもあった。

したがって、騎兵の供給源として重要になったのはステップで遊牧生活を維持していたノガイであった。ただし、ノガイはクリミア・ハンの命令には従順ではなく、時にはハンの制止を振り切って勝手にロシアを襲撃して奴隷と戦利品を奪いとったり、ハンに対して反乱を起こすこともあった。

オスマン帝国はキリスト教徒の従属国であるワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアから貢納金を取り、イスラム教徒のクリミア・ハン国からは属国軍として騎兵を供出させたとされる。しかし実際にはクリミア・ハン国から派遣された騎兵はハンやカルガイ、ヌーレッディンらの指揮下に置かれ、オスマン帝国の指揮官は直接命令を下すことはできなかった。また、遠征への参加はクリミア・ハン国に課せられた義務であったが、オスマン帝国は参戦したクリミア・ハン国軍に食料と軍資金を与え、ハンには歩兵の臨時給与の名目で報奨金を与えるなど、クリミア・ハン国軍の参加を誘引するために多くの配慮を行った。それでも、オスマン帝国の遠征への参加はクリミア・ハン国の諸部族にとって負担が重く、しばしばハンのオスマン帝国に対する反抗や部族の反乱の原因になったのである。

コラム バフチサライの泉

バレエに「バフチサライの泉」という作品がある。この作品は、ロシアの詩人プーシキンの詩をもとにしている。物語はハンが思いを寄せる異教徒の女奴隷マリアが妻ザレマに殺され、ハンはマリアを悼んで泉をつくらせる、というものだ。

バフチサライとは、クリミア・ハン国の首都であったバフチェサライ(トルコ語:Bahçesaray、クリミア・タタール語:Bağçasaray)のロシア語名である。この町には、ペルシア語で「庭園宮殿」を意味する名のとおり緑に恵まれたハンの宮殿が残っている。現存する宮殿は1740年に再建されたもので、プーシキンが詩作のインスピレーションを得た「涙の泉」(実際には噴水のようなもの)もこの宮殿に実在する。

「涙の泉」という名前は、クルム・ギライ(在位1758-1764、1768-1769)が早世した愛妻ディララ・ビケチを悼んで建造したとされることに由来するのだが、実は泉の碑文にはその旨の記述はない。宮殿内にディララの墓があることから彼女のための泉と想像されたものらしい。

日本ではどういうわけか、プーシキンの物語が史実と紹介されていることが多いようだ。実際にはクルム・ギライの愛妻の名はディララであるし、彼の治世はクリミア・ハン国の滅亡間近の頃で、物語のようにポーランドから貴族の娘を奴隷として略奪するような余力は残っていなかった。